いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

しりとりエッセイ「靴」

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 大人たるもの靴には気をつけなくてはならない。靴で人は人を値踏みする、ということを聞いたことがあるが、それが本当なのかぼくは疑っているところがある。というのも、以前間違って左右全く別の靴を履いて外に会社まで行ってしまったことがあるのだ。

 

 慌てていたからなのか単なるバカなのか、会社までの道のりの半分ぐらいまで来てようやく気づいてしまい後の祭りである。右はスニーカー、左がスリッポン、似ても似つかない組み合わせだ(冒頭の写真が当日のものである)。

 

 一瞬、髪型のアシンメトリーみたく左右非対称を「おしゃれでやってます」で押し通そうと思ったが無茶だと秒で諦め、観念してドキドキしながら出社したのであるが、これがなんと、退社まで誰にも指摘されなかったのである。もちろん、「気づいたけど見て見ぬ振り」の可能性もあるが、雰囲気的にそれは考えにくい。


 これはよくよく考えてみたら当たり前なのかもしれない。誰も人の靴に興味ないのである。それ以来、あえて左右別の靴を履くようになった…わけではないのだが、ぼくの中で靴に対するプライオリティはレオパレスの株価並みにガクンと急降下したのである。

美人であろうとブスであろうと イケメンであろうとブサイクであろうと

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 この間、友だちたちとゴマキの不倫について話していた。当時独身だったゴマキが、相手と出会ったのがネトゲだったらしいのだが、そのときの話で、顔の見えない相手を好きになり、そのあといざ会って顔を知ったあとも好きであり続けられるのかということが話題になった。 

 

 ゴマキといえば、モーニング娘。鳴り物入りで加入し、あっという間にグループの中心人物となった逸材である。そんな彼女が気になった相手に会ってみて、もし顔がタイプでない、あるいはあまり美しくない相手だったらどうしていたのだろう、というのだ。

 

 しかし、よく考えてみるとこれは変な話なのである。たとえゴマキであろうと、顔のタイプは二の次で、「好きになった相手の顔を受け入れる」ということはあるのではないか。

 

 逆に、どうしてぼくらは「もしも相手の顔が…」と思ってしまったかというと、ゴマキほどの美しい芸能人なのだから、きっと「相手の顔のハードル」もめちゃくちゃ高いはずだ、と決めつけてしまっていたのだ。
 
 ここに錯誤がある。それは「美人が好きな人は自身にふさわしい顔を好む」という錯誤だ。どんなにイケメンであろうと美人であろうと、好きになる相手の顔のレベルとそれは関係ないのである。
 
 たしかに、美男美女のカップルほど、第三者からしたら「絵になる」のはたしかである。しかしそれは、第三者的から見たときの「景色」としてのそれにすぎない。
 
 ここに主観と客観の錯誤がある。他人からどう思われようと、人が人を好きになるとき、最も無関係になるのは、実は自分の顔なのである。
 
 自分の顔と趣向の相関について。
 
 これと似たことでいうと、アダルトビデオを鑑賞しているときにあることなのだが、ディレクターや男優が、女優(特に新人女優)の劣情を煽るために放つ「かわいい顔をして、エッチだねえ」という類のコメントである。このコメントが画面から流れるたびに首をかしげてしまう。

 

 顔の美醜と性欲の強弱って、関係なくね? 

 

 これも、顔の美醜と好みの顔のタイプが無関係の錯誤がある。どんなにかわいらしいアイドルだってとんでもない性豪の可能性はあるし、どんなにイヤらしそうな顔(それがどんな顔なのかはよく分からないが)をしていても性欲が薄い人だっているはずなのである。

しりとりエッセイ「お約束」

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 ネット上における文章の「お約束」の言い回しとして「オナニー」というものがある。何もそれは陰部を自分で刺激して気持ちよくなるアレそのもののことではない。あるコンテンツについて、受容者を無視した作者の自己満足であることを批判するときに「あの作品は作者のオナニーだ」と使う。ネット上ではその言い回しがいつしか「お約束」になっている。これを僕はあまり使いたくないのだ。

 

 なぜ「オナニー」と文章で書きたくないかというと、下品だから、といった陳腐な理由ではない。何もオナニーなんて書くのが恥ずかしい歳ではない。書くのはいくらでも書ける。はい、オナニーオナニー。


 使いたくないのはむしろ、この「オナニー」という比喩が卓越しすぎているからに他ならない。これほど攻撃対象をおちょくり、毒性を保ちつつ、なおもユーモアのある表現があるだろうか。あまりに卓越しすぎていて、自分の書いた文章で「オナニー」を使ったが最後、完全に支配され、「負けた感」を覚えてしまう。だから使いたくないのだ。


 レインメーカーがオカダカズチカの技であり、ボマイェは中邑真輔の技である。それらはほかの選手は通常使わない。使うとしたら何か特別な意味があふ。同じように「オナニー」を使わない、使いたくないのは、ぼくにとってその「お約束」が、誰か他人の作った「フィニッシュホールド」だからなのだろう。

内田裕也・樹木希林夫妻が「独特」でも「奇妙」でもない理由

 

ブルーバレンタイン (字幕版)

 

 終身名誉何がすごいのかよく分からない人、内田裕也が先週亡くなった。昨年、妻・樹木希林が鬼籍に入ってわずか半年あまりのことだった。

 音楽的には特に思い入れのある人物ではなかったのだが、この人と樹木の夫婦関係にだけは、注目してしまうところがあった。

 昨年9月15日に亡くなった妻で女優の樹木希林さん(享年75)とは40年以上の別居婚を通してきた。個性的な2人の独特な夫婦関係だったが、2人にしか分からない強固なきずなで結ばれていた。

40年別居…内田裕也さんと希林さんの強固な夫婦愛 - おくやみ : 日刊スポーツ

  訃報が広まってから今まで、この手の説明が無数に広まっている。

 彼らの関係をこんなふうに「独特」だとか、あるいは「奇妙」だという表現がまるで当然のように使われている。

 

 しかし、はたして本当にそうなのだろうか。

 

 「みんな一緒」でないと気がすまない人はいつの時代もいるもんだ。内田・樹木夫妻を「独特」「奇妙」と評する心理の背景には、夫婦のあり方に「みんなこうであるべきだ」という「標準」が仮想されていることを意味する。


 例えば「土日は夫婦が一緒に過ごすのが当たり前」という価値観を持つ人は意外なほど多い。休日、夫や妻が単独で飲み会などに顔を見せたら、不思議がり、「奥さん、今ごろ浮気してるよ(笑)」とつまらない冗談を言ったり、夫婦の不仲を疑ったりしてみせる。

 

 決まってそういうことを言うのが、結婚願望の強い独身男性である。「だからお前は結婚できないんだぞ」というド真ん中の豪速球を投げ込みたくなる衝動をグッとこらえて、こちらはヘラヘラ笑ってやり過ごすのだけど。

 

 そういう「普通」をこよなく愛している大衆の期待の真逆を行くような、眉をひそめるような夫婦の一例が、例えば内田・樹木夫妻であったのだろう。

 

 はたして内田・樹木夫妻は「個性的」で「奇妙」で「異常」だったのだろうか。ぼくはそうは思わない。夫婦など所詮は、「元他人」なのである。実の親子でさえもうまくいかないのであるから、夫婦で「普通にうまくいく」方が奇跡的ではないか。

 

 かといって内田・樹木夫妻を美化をしようとはさすがに思わない。どう考えても内田によるDVはいただけない。その上、それでも離婚を拒否した樹木もよく分からない。

 

 しかし、所詮、よその夫婦なんて「よく分からない」ものなのだ。長年夫婦をやっていれば、愛や情だけで語れるわけではあるまい。怒りも憎しみも軽蔑も諦めもがごっちゃごちゃなった混じり合った関係性。別れないのは、一種のこだやりであり、執着なのかもしれない。

 ただ1つだけ確信を持って言えるのは、夫婦は通りすがりの他人が普通だ異常だととやかく評価できるような代物ではない、ということだ。

 そんなもんだから、結局夫婦のあり方に「正解」なんてない。

 「まあ、いろいろあったけどさ、最終的に俺/私はお前の味方だよ」、その最低限の了解さえとれていれば、それ以外はどんな形だって存在し得る。内田・樹木夫妻はその一例なのである。

 

 

しりとりエッセイ「顔」

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 自分の顔があまり好きではない。正確に言えば、写真や動画を通して「第三者目線」で見る顔の方である。毎朝、洗面所の鏡の前で対峙する男は、そこそこ見られる造形のような気もするのだが、殊に人に知らぬ間に撮られたときの顔が酷い。何だあの薄気味悪い笑みを浮かべる男は。

 

 諸悪の根源は卑屈そうな笑みにある。子どもの頃から、頑張っている人や真面目な人を隠れてニヤニヤとあざ笑っていたバチが当たったのだろう。両方の口角だけを上げて笑う癖があり、これがどうもイジの悪い表情を作るのである。その証拠に、「イマダさん、笑っているようで、目の奥は笑っていないよね」と言われることがある。

 

 しかし、自分以外は同じ写真を見ても写りが悪いとか本物はもっと男前だ、とは擁護してくれない。当たり前だ。他の人にはそのブ男は見慣れた「イマダ」なのだから。こんな顔を晒して自分は生きている、と第二のショックが押し寄せてくるのである。

 

 裏を返せば、周りの人間はそんな顔の男を好いてくれているのだから、ありがたい話ではあるのだが、これは自意識の問題なのだろう。自分はあの写真を撮ると現れるあの男の顔が嫌いなのだ。

 

美人になりたい―うさぎ的整形日記

美人になりたい―うさぎ的整形日記

 

 

しりとりエッセイ始めます

最近、仕事がクソ忙しいとか副業が盛況とかいろいろあってブログを書く機会が減ってきている。

そこで、しりとりエッセイを始めたいと思う。

 

【自分に課すルール】

・タイトルをしりとりでつなぐ

・更新は1週間に1度

・文字数は200~500字

・自分の身の回りのことで完結させる

・オチにこだわらない(こだわるとまた更新が滞る)

 

【これを読むあなたに課すルール】

・更新が滞っていたらコメント欄などで催促お願いします

・次のお題のリクエストも随時受付中

例:最新記事が「クンニ」で終わっていたらコメント欄で「次は『肉欲』で書いてください!」など。

 

 

「会社のバレンタイン」が苦手です

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 「会社のバレンタイン」が苦手だ。別に、自分はチョコがもらえないから、とかそんなベタな理由ではない。


 幸い、今までの会社はどこも「女がコピー、お茶汲み」みたいな古臭い性役割が残っているところはなかった。今の会社もそう。極端な話、性差なんて「トイレが別々」ぐらいしかない。ところが、なぜかこのバレンタインの文化だけは残っている。


 普段、性差をほとんど意識していないのに、バレンタインにチョコをもらうと、「いちお、女としてやらせていただいてますんでね! バレンタインデーやらせてもらっておきますね!」という無言のメッセージを受け取ったようで、なんだか申し訳ない、いたたまれない気持ちになってくるのだ。誤解を恐れずにいうと、ぼくからすればあれは「オカンにもらうチョコ」に近いのだ。


 そんな気遣いは、異性としてその先に何か発展性がある相手、あるいは発展してほしい相手にやりなよ、と思うのだ。

 

 「性差なんて意識していない。考えすぎだ」と言われるかもしれない。では、「バレンタインデーにチョコを渡す男」が増えただろうか?


 ホワイトデーはやらないのか、と言われればやるが、それは反対給付、お返しの意味合いが強い。裏を返せば、ホワイトデーをやらなければならなくなる理由がこのバレンタインデーなのだが。

 

 幸い、最近では「友チョコ」という概念が普及しているという。早く、「贈りたい(同性異性に限らず)人が、贈りたい相手」に贈る文化になればいいのに。


 ああ、今日は出社がいつも以上に憂うつだ。