いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

世の中には凸の人と凹の人がいる

例えば、飲み会があったとしよう。わいわいがやがや盛り上がっているのだが、そろそろ終電がやばいと気になってくる時間帯にさしかかり、「そろそろお開きにしますか」などと、やんわりと会の幕引きをする人がいる。幕を引いた人にやんわりと流されて従っていくその他の人々。
思えばそういう人は、複数人での遊びや旅行の約束もすいすいっと取りまとめ、形にする。本人に聞くと、別段企みがあるわけでなく「遊びたいからみんな集めただけだよ(笑)」と言う。こちらも、嫌でないから、いやむしろ、誰かに誘われたら誘いに乗りますよぐらいのスタンスなので、喜んで参加するのである。
そうやって、場の流れにきっかけを与える側の人がいて、もう一方に与えられたきっかけに乗る側の人がいる。



前者を仮に「凸の人」、後者を「凹の人」と表現しよう。

あなたは、前者と後者はその場の雰囲気でたまたま決まるものだと思われるだろうか?

ぼくはそうは思わない。おそらく凸の人はいつも凸であり、凹の人はいつも凹なのである。

人のコミュニケーションの「型」のようなものはたぶん、成長過程のどこかの時点で決まってしまっていて、多くの人のそれはほとんど一生ついてまわる。ざっくり言うと、その型こそが、この凸か凹か、なのだ。

ただし、これはいわゆる「コミュ障」問題とはちょっと違う。コミュ障は多少は凹の側への親和性が高いだろうが、社交的な人でも相手に話しかけられれば、という条件付きの人はいくらでもいる。
コミュニケーション能力に長けていたって、受け身の人はいつまで受け身なのだ。受け身じゃダメだとさとされ、そうかダメなのかと積極的にやっても、意識的にやらないとできないわけで、長くは続かない。
意欲があるかどうかでもない。そういう精神力の大小でなく、とにかくこれは「型」なのだ。


凸は些細な会話でも、自分から進んで話しかけられる。いや、「進んで」という言葉が入る余地もなく自然に、意識化せず、呼吸するように人に働きかけることができる。それに対して、凹は相手に気づかれるのを待つか、どうしてもという必要に迫られてから、ようやく重い腰をあげる。
仕事から恋愛まで、凸と凹はあらゆる場面についてまわる。恋愛で言うならば、いつも自分からはアプローチできないという人は、間違いなく凹だろう。男性は凸、女性は凹という性別の問題ではないから、普段は凸の人が凸にアプローチされて恋愛に至るということがあれば、反対に凹と凹が互いにモジモジして何にもならない可能性もある。


私見では、凸に比べて凹の方が圧倒的に多い。
けれど、行動の主導権を握れる凸の方が、生きる上で何かと有利なのは言うまでもない。
いや、もしかしたら、凹の側が勝手に自分で状況を不利にしているだけかもしれないが。