いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

Twitterで“RTしない倫理”は評価されない

Twitter上で、ワールドカップ関連の誤報が話題になっている。ここで名指しすると文章の趣旨にも矛盾を来すので名指さない。ヒントは、“みのさん”と“TBS”。


もうこれは、真っ赤っかなデマだったという。



新しいものは得てして、良い面と一緒に悪い面も同時に僕たちに運んでくるものだけれど、このTwitterにとっての後者といえば、まず思いつくのはこの「デマ増幅拡散装置」としての側面だろう。


既存のネット社会にはないTwitterならではの優れて増幅拡散装置的な側面は、RTの機能に集約されているといっていい。特に公式のRTの場合、数回の「ぽち」ですぐに情報を拡散することができる。Twitter上で起こるデマとは、その「ぽち」で広まった情報が誤報であったということだ。


このRTの「ぽち」に抗うことがなかなか難しいことは想像に難くない。フォロワーの多い人の場合、この「ぽち」の対価があまりに大きいということが実感できないのだ(その分、そういった人たちは自覚しておくべきということなのかもしれないが)。たった一回の「ぽち」で、下手すれば数千の人に広まってしまう。いちいちブログで記事にしたりトラックバックを送ったりするのに比べれば、情報を広げたことの“重み”というのが「ぽち」にはない。


それに、今のところ多くの人にとってネットなんてのは「暇つぶし」であり、特にTwitterなんかはネタメディアもとい、人と接続することが前提のソーシャルメディアなのだから、物議をかもしそうな、もっと露悪的にいえば炎上しやすいものを選択的に広げてみたいと思う心理はわかりやすい。それに、すでに多くの人が乗っている「御輿」がそこにある場合、自分の乗らなきゃ損損とばかりに嬉々として広めたくなるのもムリからぬことだろう。



「ぽち」とその影響の対価が釣り合わないという話でいえば、「ぽち」でデマを拡散させてしまった人へのペナルティーというか、そういう罰則規定がないという意味でも、「対価」は釣り合っていない。


言い方を変えると、これは(RTしてみたかったけれどあえて)“RTしなかった倫理”が、なぜネット上で評価されないのか、という問題とパラレルになっている。


それは簡単、見えないからだ。ネットというのはきわめて“視覚偏重メディア”だ。多くのものが目で分かるように数値化される。その中でも、著作権の「ちょ」の字も知らなかったのだろうハイパーメディア中学生が、「ネ申」と崇められたかったがゆえに起こしたかの事件が示すように、人の「視線」はネットでもっともありがたがられる「通貨」のひとつであり、むろんそれも数値化されている。


そして、「起きたこと」は注目されるが、「起きなかったこと」は注目されない。
なぜならそれは「0」だからだ。「起きなかったこと」は「存在しない」のだ。



「起きなかったこと」が「存在しない」、そんなのあたりまえじゃないかだって?本当にそうだろうか。


これは、「不祥事」が発覚した後になってからギャーギャー騒ぎ出すお昼のおバカワイドショーと似ている。彼らはお金になる「異常が起きた非日常」にこそ殺到するが、「正常の流れる日常」がどんなに掛け替えのないすばらしいものなのか、そこには露ほども注意を向けない。


あまりに魅力的で優れてネタ的な情報をRTしてみなに伝えたい内容なのだけれど、裏がとれてないからRTを「ぽち」しない。
その「行動」は当たり前ながらタイムライン上には流れない。だからそのしなかった「倫理」は評価されない。それに、所詮ここで自分がRTを自重している間にも、たぶん他の誰かがRTして着々と広めているのだ。
そんな中で、RTをせずにおくことの方が難しいと考える人も多いんじゃないだろうか。


前にも書いたけれど、スポーツには「記録に残らないファインプレー」というのがある。野球なんかで、相手のプレーを察知してあらかじめ守備位置を変更しておくことなどだ。同じ場所に同じスピードでボールが飛んできたとしても、横っ飛びでボールをキャッチするならばど派手なプレーとして賛美を浴びるが、守備位置変更なんて地味なプレーでは、何よりもボールを止めたこと自体ではいたって「ふつう」に見える。だから観客の目はひくことができず、解説席などに座る玄人に気づいてもらわないと「存在しない」。



Twitterに限らずとも、日常的にネット上での「炎上」を見かけるにつけ、「クリックしない倫理」「ブクマしない倫理」などが評価されるシステムは、いかにすれば構築できるのだろうというのを、最近考える。


だが、よく考えてみれば「倫理」というのを「対価」のもとでなすというのも変な話で、他人に評価されようがされまいが自分の倫理を成すというのが、倫理の本義なのかもしれない。それに、今日もネットのどこかでそうやって、もしかして僕が想像するよりはるかに多くの「倫理」が、評価とは無縁のところで断行されているのかもしれないのだから。