いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

無音盆踊りがもつ「価値観の断絶」を生き抜くヒント


きのう、産経新聞が公開した「無音盆踊り」についての記事が話題になっている。

花火と並ぶ夏の風物詩、盆踊り。心浮き立つ太鼓の音が鳴り響き、各地で大会や練習が行われている。とはいえ、最近は、地域のお祭りを騒音と感じる人も。新手の対策として、踊り手がイヤホンで音楽を聴きながら踊る「無音盆踊り」が登場。「不気味」という反応の一方で、「踊りに没頭できる」という好評価もある。地域住民の連帯感と一体感が持ち味だった盆踊りが変化しつつある。(村島有紀)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150816-00000501-san-life


この「無音盆踊り」は、愛知県東海市大田町で6年前から実施されているようなのだけど、百聞は一見にしかずということでまずは刮目して動画で見てもらいたい。

おもしれえ……。大人数が集まり、別に息を潜めているわけでなく手拍子もあるから真の意味での「無音」ではないけれど、たしかに音楽が聞こえてこない不思議な盆踊りなのは事実である。

興味深いのは、この試みがイヤホンという音楽を他の人と共有せず、個人で楽しむための機器によってなされていることだ。そんなイヤホンの音源を共有するアイデアで、この盆踊りは成り立っている。


ただただイヤホンをつかって音を無音にしているだけではない。そこにはイヤホンをつかったもう一工夫がなされている。

内側の輪と外側の輪で踊る人たちが、それぞれ、年齢層に応じた異なる音楽を聴いて踊ることもできる。例えば、内側の輪には年配者向けに「炭坑節」、外側では、子供向けに「おどるポンポコリン」といった具合だ。

同上

各世代が別々に同期しつつ、リアル空間でフィジカルに同期することによって、全体として「盆踊り」の体裁を保っているのだ。この試みには思わず膝を打った。
マスカルチャーが形骸化し、各世代ごとの価値観の断絶は避けられない状況にある。そんな中、この無音盆踊りは、興味関心を共有しえないクラスタ同士に、同じ空間において同じイベントを楽しませることに成功しているのだ。


と、このように面白がりつつも……この記事について呆れる気持ちがあったのもたしかで、それは盆踊りに苦情を言ってくる側にだ。

そもそも、無音盆踊りの発祥には「騒音」だとする苦情が寄せられたことがある。ここにも実は「価値観の断絶」があるのだ。

かつてなら一笑に付していたような言い分だが、現にこうして無音盆踊りという変化をもたらしたのである。社会がリベラルになっていくにつれ、このように「自分の不快なもの排除したい」「(自分が人に迷惑をかけていない以上は)人から迷惑をかけられたくない」といった価値観のプレゼンスが高まっていることは確かだ。これもまた、避けられない時代の趨勢だ。

無音盆踊りは、苦情を言ってくる立場からすれば「無害化された有害」だ。ちなみに、こうした時代性について、哲学者で精神分析家のスラヴォイ・ジジェクが皮肉交じりにかつてこう書いていた。

現代の市場には、ありとあらゆる種類の、有害物質を除去した食品が溢れている。カフェイン抜きのコーヒー、脂肪のないクリーム、アルコールの入っていないビール、等々。ヴァーチャル・セックスというのは「セックス抜きのセックス」、死者(もちろん味方の)を出さない戦争というコリン・パウエルの主義は「戦争抜きの戦争」、政治を専門家による行政力として解釈し直そうという最近の風潮は「政治抜きの政治」、リベラルな多文化主義というのは、〈他者性〉を抜き取った〈他者〉の経験ではなかろうか(魅惑的なダンスを踊り、現実に対してエコロジー的に健康的で全人的なアプローチをするという理想化された〈他者〉のイメージばかりが強調され、妻を殴るといった面は表に出されない)。


ラカンはこう読め!』pp.70-71


もうひとつ、批判されるべき立場の人間がいる。それは、こうした試みを「まるでカルト」「不気味」などと気持ち悪がっている側の人たちだ。
なぜならこの無音盆踊りこそが、「カフェイン抜きのコーヒー」を望むわれわれ現代人にとっての盆踊りなのである。この光景を気持ち悪がっているとしたら、それは鏡で自分の顔を見て気持ち悪いと思っているのと同じである。

それか、彼ら彼女らが顔をしかめるのは、まだ「カフェイン」が抜けきっていないからかもしれない。無音盆踊りの光景が気持ち悪いというのなら、それもまたひとつの「不快」なのだから。


今後、SFに登場するような光学迷彩が実現すれば、無音盆踊りの「光景」を気味悪がる人たちへの対応として、用いられるかもしれない。
その名も「無音"透明"盆踊り」。英語にすると、サイレント・インビジブル・ボンである。参加者は無音で姿形を消した上で盆踊りに興ずる。

どうだ、これで文句はないだろう?