いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】遺体――震災、津波の果てに/石井光太

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

3.11が起きた当時、ビートたけしが発表した談話が大きく注目された。
――「2万人が死んだ一つの事件」ではなく「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ

達見だと思った。


震災犠牲者にはそれぞれ固有の人生があった。これまでも、そしてこれから先も、その人はこの世界に1人しかいないのである。

そんな彼らを、災禍は無作為に、無慈悲に、一度に奪っていったのである。それは、犠牲者それぞれの固有性を奪い、数に変えてしまう暴力だ。

本書はタイトルにあるとおり徹頭徹尾、震災と津波によって亡くなった人々の「遺体」について書かれてある。正確を期すれば、遺体とそれを悼む人々について、だ。

震災と津波は、生者と死者に無作為に選別した。けれど、生者に悲しみに暮れる暇もなかった。

遺された者には、死者を弔う使命があったのだ。

本書は、懸命にそれを全うしようとした岩手県釜石市の人々の約2週間を、彼らの証言を元に記すルポタージュである。

ハードカバーで出版されたときから気にはなっていたが、この度文庫版になったということで手に取ってみた。

文庫版あとがきでは、3年が経とうとする釜石の現状に少し触れている。


本書は、我々が福島の原発事故に注目している中、津波で被災した地域は膨大な遺体という問題を抱えていた、ということを突きつける。

被災後、地域に散乱した遺体が安置場に尽きることなく運び込まれて行く。

それらの個人を特定し、遺族に還さなければならないはないが、膨大な遺体をさばけるようなシステムはない。

ましてや、釜石は津波のよって壊滅し、街としての機能が麻痺していたのである。


非日常と化した世界の中、生き残った人々はなんとかしよう立ち上がる。

かつて葬儀社で働いていた男性は安置場を指揮する役を買って出て、歯科医たちは死後硬直に悪戦苦闘しながらもなんとか歯科検案をしていく。

市の生涯スポーツ課だったはずの職員は、各地から遺体を搬送する役回りを黙々とこなして行く。

その他多くの人が、リセットされた街に仮の秩序をつくり、対応しようとしている。当然ながら彼らは自らも被災し、傷ついているのに、だ。

みなが努力するが、中には悲惨な状況と過労により精神を病み、リタイヤしていく者もいる。

また、震災遺族は、自分の亡き家族への扱いが不十分だと怒鳴り、彼らを叱責する。そうした怒りにもまた同情してしまうため、やるせなくなる。

やがて遺体の腐敗が始まり、自治体では火葬を諦め、一部身元不明の遺体から土葬するという案も持ち上がる。

土葬では満足に供養できないと、関係者らはなんとか事態を打開できないかと奔走する。

はたして、彼らの努力は実るのか。続きは本書を開いてみてもらいたい。


震災による遺体の描写は悲惨で、それがさらに朽ちていく様も生々しいが、何よりも重たいのは、彼らと遺族が再会した描写である。

再会は、彼らは肉親の亡骸を取り戻すと同時に、家族がこの世にもういないことを突きつけられる瞬間だ。

辛い出来事だが、生前の痕跡を剥奪された遺体が家族の元に帰り死者として正式に登録されたとき、そのときが彼らの固有性を回復する瞬間なのだと思う。


著者が2ヶ月後に釜石を訪れたときのことを記すエピローグの、その最後の行。

供養された犠牲者の遺骨を眺める情景を描きながら、「みなさん、釜石に生まれてよかったですね」という言葉で著者は本文を綴じる。

犠牲者らが死にたくて死んだわけではなく、彼らは釜石市に住んでいたからこそ亡くなったのだ。

最後の行だけ読めば、違和感を持つ人もいるかもしれない。

けれど、この本をはじめから読み通し、犠牲者を懸命に弔おうとした人々の存在を知ったならば、この言葉には頷かざるを得ないのである。