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85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】ミッキーマウスの憂鬱/松岡圭祐

ミッキーマウスの憂鬱 (新潮文庫)

ミッキーマウスの憂鬱 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
東京ディズニーランドでアルバイトすることになった21歳の若者。友情、トラブル、恋愛…。様々な出来事を通じ、裏方の意義や誇りに目覚めていく。秘密のベールに包まれた巨大テーマパークの“バックステージ”を描いた、史上初のディズニーランド青春成長小説。

ディズニーランドで働くことになった若者を主人公に、「イッツ ア スモール ワールド」のアトラクションのようにランドの舞台裏を観光できるようになっている小説。ただし、あくまでこれはフィクションと断られていて、おそらく綿密な取材を重ねた上で虚実をまじえて再構築しているように思える。
読みながら抱いた最初の感想は「え、ミッキーの名前を借りて、こんなこと書いていいの?」というもの。最近、しずるの村上が二郎の店主に無断で本を出してぶち切れられていたけれど、権利にうるさいディズニーだけになんか言われるんじゃないのか? といういらない心配をついついしてしまう。

というのもこの小説の大半は、血気盛んな主人公が夢と現実の違いを痛感していくプロセスであり、主人公と相対する「正社員」らは、めちゃくちゃ嫌なヤツとして描かれているのだ。
ストーリーは、主人公があの「ジャングルクルーズ」のツアーガイドの面接を受ける場面から始まる。背広をまといクスリともしない正社員らに注目され、その中で主人公は失態を繰り返し、ますます冷たい空気が場を流れる。こうした光景自体、あのにぎやかで楽しげな現実のアトラクションを知っていれば、ちょっとしたショックを受けるだろう。

ツアーガイドは不合格になったものの、着ぐるみの世話をする「美装部」への配属が決まった主人公。喜びもつかのま、彼の前に立ちはだかるのは正社員と準正社員をわかつ、歴然とした「身分社会」である。この身分差別の描写があからさますぎて、全体的に安っぽい印象を受けるがそれはともかく、面白いのはこの場面。

 そのとき、拡声器の声が告げた。「メインキャストクルーの登場です」
 周辺のダンサーやキャストたちがいっせいに広報に向き直り、拍手で何者かを出迎えている。黒のリムジンが数台、徐行してくる。山車の脇に停車したそれらの車両から、着ぐるみではない人間型のキャラクターが降り立った。王子の扮装をした白人の男、白雪姫やシンデレラの衣装をまとった白人の女。まるで本当に身分が違うかのように丁寧な待遇を受けながら、それぞれの山車へと歩いていく。

pp.60-61

ディズニーランドのその多くのアトラクションは中世ヨーロッパの世界をモデルにしているけれど、反面その世界の基盤となるあるシステムの再現だけは回避している。それは身分制度である。
当たり前ながらディズニーランドに身分制度はない。現代はお金を払う人をみな平等に扱う資本主義社会であり、ミッキーはゲストを差別しないのである。そんな夢のような表の世界を肩代わりするかのように、裏にこうした身分社会があるというのは皮肉な話である。
また、あれだけ壮大な夢を常時構築しつづけるために、裏方がどれだけ犠牲を払っているかも、本作は随所で明らかにしている。ゲストが現実を忘れる為に、キャストは壮絶な現実を味わっているのである。


主人公が仕事になれる暇もなく、ランドの存亡を揺るがすとんでもない「紛失事件」が起こる。ある女性の準正社員が事件の犯人と疑われ、主人公たちは彼女の潔白をはらすため、紛失したものの捜索に乗り出す。はたして紛失したそれは見つかり、彼女の潔白は証明されるのか。そして、主人公はそんなクソみたいな職場にも希望を見いだすことができるのか……続きは本を手にとってみてもらいたい。


本心をいうと小説としての面白さは微妙である。先の展開は読めるし、キャラクターは定型的で、なにより主人公の出しゃばる感じに反感を持つ人がいてもおかしくない。また、これが全くのルポタージュであるならむちゃくちゃ楽しいが、先述したようにどこからどこまでが本当かわからないため、鵜呑みにもできない。

というわけで中途半端な小説ではあるが、ディズニー好きなら一度手に取ってみてもそんはないだろう。