いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

悶絶!イタ面白い映画〜『キング・オブ・コメディ』批評〜


こっちじゃなくて

こっちね(お約束)


タクシードライバー』『レイジング・ブル』などの名作で知られるスコセッシ×デ・ニーロコンビによる5作目にあたるのがこの作品。デ・ニーロの役どころは、超人気TVコメディアンのジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)に憧れ、自分もいつか同じ番組に出たいと夢見る名もなきコメディアン、ルパード・パプキン。ファンにもみくちゃにされるジェリーを助けだすことで彼との接触に成功したパプキンは、自分のネタを見てもらう約束をとりつける。

ここまで読むと、『タクシードライバー』と似ても似つかない華やかなショービジネス界での男の成功譚が描かれていくようにみえるが、事態はまったく別の方向へと転がっていく。

この作品は一般的にコメディに分類される事が多い。しかし内容はそんなに軽快なものではない。一言で言うとこの映画は「いたたまれなくなってくる映画」だ。面白いのは面白いが、その面白さはどちらかというと「イタ面白い」と表現するのが適当だ。ぼくなどは、パプキンが何かをしゃべるたびにイテ!イテテテ!もういい!わかった!やめて!となった。

それはなぜか。このパプキンという男は、野心は大きいものの現実がちっともそれに追いついていないのだ。にもかかわらず、野心の方をあきらめたり縮小することはできない。ではどうするのか。彼は現実を見ようとしないのだ。一見、ジェリーに接近するなど彼は現実に積極的に関わっているように見える。けれど、ジェリーをはじめとする「他者」との会話は決定的にかみ合わない。つまり彼は現実を見ているようで、実際は全く見ていないのだ。こうだったらいいな、きっとこうなるはずだ!という妄想のなかの住人なのだ。それを象徴するのは、とある書割の前でたたずむシーン。あそこだけは、面白いというより少し怖かった。

どうだろう。パプキンのような人が周りにいないだろうか。いや、もっと言おう。ぼくだってパプキン的なところはあるし、誰にだってそれはあるだろう。ワナビーで野心だけはいっちょまえなのに、そのための努力をしてなかったりあるいはその努力の仕方が決定的に間違っている。彼ほどでないにせよ、われわれ誰しもがパプキン的な一面をもっている。だからこそ、この映画はただ面白いのではなく、イタ面白いのだ。

見ているようで実は現実を見ていないから、映画が進むにつれ彼と現実との軋轢は高まってくる。そしてその軋轢が限界点を突破したとき、ついに彼は決定的な凶行に向かってしまう。

そのあと彼はある超現実的な方法によって、一夜だけのTVショーの舞台に立つことになる。彼以外にとってそれはお笑い沙汰(というか狂気の沙汰)にしか思えないのだが、彼にとってそれは一世一代の大一番だ。なぜならこれは、彼の脳内妄想が、真の意味で現実化してしまう瞬間だからだ。番組に出演するためにメイクしたいと彼が頼むと、隣にいたある人物が「(顔を)紫に塗ってやろうか?」と冷やかし周りの人間も失笑する。しかしパプキン本人だけはクソまじめに「時間がないんだ」と答える場面は、面白くもあるがどこかせつない(ちなみに、番組本番中のネタでパプキンの放った名言「ドン底で終わるよりもオレは、一夜の王になりたい」で、ぼくは江頭2:50の「1クールのレギュラーよりも、1回の伝説」という言葉を思い出してしまった。彼は現代のパプキンなのかもしれない)。

珍しくブログに映画評を書いてしまったが、ぼくはここまでの展開でオールタイムベストにいれるくらいこの映画に惚れこんでしまった。しかし、ただ一点、クライマックスの展開に納得できなかったのが残念でならない。先に書いたとおり、パプキンは一夜限りという条件でTVショーに出演する。それは直後に録画放映されるため、彼はテレビで自分自身の姿を初めて視ることになる。パプキンがTVショーで漫談を打つ自分=客観的な視線でみた自分を見せつけられることによって、それまで彼の脳内でほぼ無傷の状態で保たれていた妄想に、重大な亀裂が入るのではないか?とぼくは期待したのに、事態はそうならなかったのだ。むしろ事態は逆の方向に行く。

最終的に彼はどうなるのか。ラストカットは現実なのだろうか、それともあれも彼の妄想なのだろうか。それは明示されない。観る者に丸投げされるわけだが、ぼくは彼には痛いままで終わってほしい。
とにもかくにも、面白いから誰かみて俺とこの映画について語ろうぜってことで!