いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「眼差し」の不平等さ

それにしてもここ数日でここまで評判の変わる人もそうそうはいないだろうのりピー

夫逮捕後、ワイドショーでしばらくは「家族の将来を悲観する悲劇の妻の逃避行」の物語が盛んに取り沙汰され、逮捕状がでる前後くらいからは夫の逮捕現場での「泣き崩れ」など巧妙な立ち回りもふまえて「面の皮の厚い女」みたいになっていった。いやはやテレビもなかなか忙しいものである。


大原麗子の最期と、彼女の逃走劇にはなんの関係もない。大原麗子が難病を患わなくともりピーは逃走資金をゆうちょから調達していただろうし、のりピーが警察とのファーストタッチですぐに白状していれば大原麗子の腐乱の進行が免れた、というわけでは毛頭ない。しかし、その無関係な二つの事象でも、同時的に起こったからこそ考えてみたいことがある。
「眼差し」というものの不平等さだ。

こういう実験があったというのを聞いたことがある。街の中で、何も知らされていない人物(つまり被験者)の周りの人間が一斉に、空を見上げるのだという。彼らはもちろん実験のためのサクラのようなもので、空には何にもない。ただ青空が広がっているだけだ。しかしおもしろいことに、被験者はたいてい、その周りの動きにつられて上を見てしまうのだという。この実験は、サクラの人数が10人でやるときよりも100人でやるときの方が、成功率が高くなったらしい。
この話を聞いて、なるほどなと至極当然のように思えて、すこし薄ら寒いとも感じるのは僕だけだろうか。注目が集まるとき、僕らは注目するべき対象がそこにあるからこそ注目するのではない。注目している視線が集まっているから、単にそちらの方向を視てしまうのだ。


ある人はその行方に「全国的」に注目を集まる一方で、ある人はだれにも気付かれることなく、死後2週間もほっとかれたのである。仮にも「大女優」である。お世辞ではなく、僕は彼女の生前から、もし誰かに「大女優といえば?」と聞かれたら、きっと彼女の名前を言っていたろうと思う。寅さんのマドンナを何回か務めたことあるし、好感度でもたしか14年連続で一位を獲っていた。満場一致とはいわずとも、その名に値するだけの経歴はあるはずだ。
で、あるにもかかわらずの「2週間」なのだ。

そういう人でさえ、一度ブラウン管(いや、彼女が映らなくなってからテレビはもっと薄くなっていった)から遠ざかれば、孤独死だってあるかもしれない。眼差しの支配する芸能界って、苛酷だ。


大塚英志は、手塚治虫がかつて自分のマンガを記号の集積でしかないという発言をしていたのを引き、まんがはキャラクターを通して、死を描けないメディアなのだと盛んに論じていた。けどそれは、まんがに限った話ではないのではないか。
テレビだって、「死」は映せない。だからそれに映るタレントは「死なない」のである。テレビに映って、万人の眼差しを享受しているとき、タレントは死なない(死ねない)。ドラマや映画で描かれる死だって、おざなりのごっこ遊びに過ぎない。だいたい視聴者だって知っている。犯人の凶弾に倒れた彼も、自ら毒を盛った彼女も、どうせ「はいカット!」のかけ声で、再びむくっと起き上がるということを。


タレントだって、いずれ死は訪れる。しかしそれはタレントが死ぬのではない。人間が死ぬのである。


そう、人間は腐るのである。この単純な事実。
孤独死する可能性だって捨てきれない。僕はどっから腐っていくのだろうか。