いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ヘキサゴン化するセカイ

今年もなんだかんだ言って、26 時間テレビを視てしまった。この感想を誰か友人と会って話すのならおそらく僕らは、まず総評として例年のごとく「去年よりつまらなかった」と述べ、それにすぐさま留保として「ただし深夜のさんまの出てたとこは面白かったけど…」と付け足すのだろう。
そう、例年通り。
この番組が、毎年こうして「去年よりつまらな」くなっているということは、その面白さは毎年減退しているはずなのだが、そのような主観から発せられた言葉であるはずなのに、いやだからこそなのか、Youtubeなどで見返してみると、おもしろいことにおそらくは5年前も10年前も、同じ程度に「つまらない」はずなのである。そして言い換えれば、同程度に面白いはずなのである。


それはさておき、今年番組の中心となっていたのは「ヘキサゴン」である。フジテレビのこの番組のメインになったということはやはり、ヘキサゴンは今のフジテレビの「顔」と考えて相違ないだろう。


「ヘキサゴン」といえば、まあ一般的にバカをのさばらせている番組、ということで大方の見解は一致していると思う。しかしそれを「ヘキサゴン1」との相違で考えてみると、感慨深い。「ヘキサゴン1」(というか初代)というのは、そもそも「知性派」のタレントたちが六角形の机に集って繰り広げる、騙し騙されの応酬による非常に高度な心理戦だったのである。そんな初代と比べれば、出演者の知性の平均でははるかに劣っているかもしれないが、ヘキサゴン2が初代のヘキサゴンというものが存在したことさえ忘れられるほどに、印象においてボロ勝ちしてしまったのには、もはや時代的な要請があったように僕には思える。


今まで(ヘキサゴン2以前)のクイズ番組を視るとき、僕ら視聴者はとるべき態度というものが決められていた。いや、とらざるを得ない作法があったというべきか。問題文を聞いて、その卑小な脳みそで答えを探し出し、内心ではヒヤヒヤしながらも答えを案出できるや否や、「こんなの簡単!」とうそぶきながら、たとえ自分以外そこに誰もいなかったとしても、解答をボソリと呟くのである。そればもし正解であったならば、ささやかながらもナルシシズムが満たされる。
しかし、この作法は「ヘキサゴン2以降」は通用しないのである。いやむしろ、この番組に対してそんな作法をとること自体が「不正解」、不健全なのである。


日常において正解を積み重ねることで、僕らがなりたいのはいわば、今週の得点王(人生の成功者)である。しかしその人生という問題文が読み上げられる途上、その問題のそれほどおもしろいものではない正解に気づいてしまった回答者にとっては(おそらく相当得点の低い問題だろう)、もはや正解を答える意義など見いだせるだろうか。たとえそこでバカ正直に正解を叫ぼうが、得られるのはスタッフによるまばらで乾いた拍手と、両脇の回答者による「そんなのわかってたよ!「なぜ正解なんて答えた!」という無言の圧力ぐらいだろう。


そう、「なぜ、正解なんて答えた!」、なのだ。
同語反復的だが、結局そういうことなのだ。「正解」することにどれほど意味があるだろう。「不正解」であることにどれほど落ち込む意味があるのだろう。それすら僕らはわからなくなってきている。


ヘキサゴンに出ているタレントらと僕らの関係は、泥レス(泥んこレスリング)に対する僕らのとる態度によく似ている。
泥レスの繰り広げられているリングの外で、その饗宴を見る僕らは激しくそれを嫌悪するだろう。そんなものには参加したくない。自前の服を着ているのであればなおさらだ。しかし、現に泥レスに参加している人々にも、かつては同じような躊躇があったはずなのである。何が彼らを能動的にそれに駆り立てているのかというとそれは、「もうすでに汚れた」という事実である。
だが、もともとリング外で見ている僕らと彼らの間にどれほどの違いがあるというのだろう。染みひとつない真っ白のTシャツ(自尊心)を着ているわけでもない。そんなTシャツ、とうの昔に汚されてしまっている僕らに、今さら汚されることに脅え、嫌悪する口実などどこにも見あたらない。十二分に汚されることを楽しむ「権利」と「義務」があるのである。


「バカが感染る」という常套句があるが、僕らは進んで「バカを感染されたい」と思うレベルにまで来ている。