いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

時には日記のように〜♪

ここ最近ブログの更新をサボっていたのはなにも、突如として訪れた精神的な危機によって朝から晩まで抗うつ剤で脳髄をバチッと極めていたからでも、どっかのだれかに拉致されてブリーフ一枚&猿ぐつわでロッカーの中をモゴモゴしていたから、でもない。実家に帰っていて、うちのPCが未だに98なんです…。大学生の弟にはVistaが与えられているのだが、それは以前僕が無断で使ってしまったせいなのか、今では頑丈なセキュリティがかけられている。地方のデジタルデバイドブラザーフッドのなさを痛感した今日この頃いかがお過ごしですか。


一週間近くブログを書かないと、いろいろ書きたいこともたまってくる。ケータイからでも書けるだろうが、あれは指でぽちぽちやるわけでキーボードで打ち込むより圧倒的に遅い。僕の思考の速度とはまるで合わなくて、手段としては無いに等しいのだ。
それで、書きたいのに書けないというのは、辛いことなのだということを今さらながら発見した。後で書けばいいじゃないかって?そう、今食えないなら冷蔵庫へ、なるほど単純な理屈ではあるが、書くことに関してはそれはあまり言えないのではないだろうか。

例えばAという話題について書きたいというとき、分かりやすく言えば僕がAの気分なのだ。それで、そのAの気分の時を逃してしまうと、たとえAについて書けたとしても、…なんかしっくりこない。100あるうちの40、よくて60ぐらいしか書けた気がしない。たとえ100だったとしても、何か書き忘れてないか、どこか取りこぼしていないかという不安感に駆られる。だから、Aの気分の時にAについては書かれなければならないのだ。ここらへんは、以前読書について書いたことに似てると思う。

それで、この10日ぐらいいろいろあって、「あれもあるなこれもあるな」と思っていたら、どんどん忘れていくため、おそらく今僕が覚えているのはそれの断章みたいなものでしかなく、文章としてはなんらまとまりはなくなってしまった、データのカスでしかないのだけれど、今日は夏休みだしたまにはそういう断章的、脈略もなく書くという実験を試してみます。


突然ですが実家にハイビジョンテレビが来ました。
テレビが「来る」という表現は独特の言い回しだと大澤真幸が書いていたが、ネット社会だなんだといわれても、未だテレビの存在はでかい。それにハイビジョン、きれいだ。女優の毛穴からそばかすまで、がっつり映してくれる。おまけにデジタル地上波なのでBSも映るので、我が実家はとうとう多チャンネル時代に到来したわけだ。

それで、実家に帰って早々、ほほう〜と、その高画質に見とれていたのであるが、ふと、ちょっとしたことに気がついた。

「映ってる番組は、おもしろくないじゃーん」

そうなのである。画質の良さに驚くのもせいぜい2、3日で、テレビ自体がおもしろくなければどうしょうもない。テレビがつまらないのは、本当につまらなくなっているという外在的要因なのか、それとも僕が人間的に成長をとげ俗物にあまり惹かれなくなったという内在的要因があると思うけれど、少なくともテレビがおもしろくない(なくなった)というのは事実なのである。チャンネルが増えたのにもかかわらず、そのどれを付けてもおもしろくないという何たる皮肉。


で、テレビのつまらなさに拍車をかけているのが、やはり例ののりピー騒動で、もう「のりピー」と入力するのもうんざりするのだけれど、この問題にはいろいろ考えさせられることがある。まずタトゥーに現代ニッポンはここまで非寛容的だったのか、ということ。2007年に入れたとかどーたらこーたら言っているけども、今時タトゥーなんて入れている人はそこら中にいるのに、今さらのりピーが入れていることに、そこまで騒然となることもないだろうと思うのだが。

余談ではあるが、TBSの昼のワイショーはどの局にも増して執拗にこの件をイジリ倒しているが、ある日の番組で右上のテロップの欄に次のような文句が踊っていた。
「夫婦揃いのタトゥーの謎!?」

…いやむしろ、夫婦だからこそ入れるということもあるし、それは「謎」でも「!?」でもなんでもないわけだ。それは例えば、高相さんが「俺たち夫婦で」、のりピーが「ラリってます」とか入れてるとか、そういう「揃いのタトゥー」を決め込んでいるなら多少なりとも「謎」にはなるだろうが。



そうこう書いているうちに、ちょうど今僕の陣取っている大学構内のPCの前方から、なにやら親しげな笑みこちらに投げかけながら、中年のオッサンが近寄ってくる。それである距離まで近づくとその親しげな笑みは豹変。申し訳なさ、恥ずかしさとその他もろもろの感情を表情いっぱいに表しながらオッサンは、赤い顔して逃げるようにそそくさと来た道を帰っていった。


またかよ、である。


このブログではたぶん初めて明かすことになるが、どうも僕の顔は、「どっかで見た顔」ないし「だれかに似てる顔」らしいのだ。芸能人のだれそれに似ている、ということではない。何か特徴的な顔をしているというのではなく、むしろ凡庸な顔なのだろう。「誰もが周囲に一人や二人知っている」というような顔らしいのだ。だからさっきのオッサンのように、ある距離まで偶然見つけた知り合いだと思い込んで近づいてきて、声をかける直前になって僕が全くの赤の他人だと気付くのらしい。もちろん声までかけられることも幾たびもある。
まあ、こちらにはほとんど実害はないのだが、ときおり声をかけて僕が別人だとわかった後にがっかりする輩がいて、そういうヤツのがっかり顔を見せられると「すいませんねぇあなたの知人でなくて」という申し訳名い気持ちに多少なるのだけれど、即座に「オレ悪くねぇし」という怒りもふつふつと湧いてきて、こんな顔に生まれた不幸を呪うしかないのである。


そういう僕の特殊な「どっかで見た顔」ないし「だれかに似てる顔」なのだけれど、特殊なわりに僕のまわりにはもう一人、「どっかで見た顔」ないし「だれかに似てる顔」で、よく人に人と間違われるという逸材がいて、それはそれは僕の身近な人で、要するに僕のハニーちゃんなのだけれど、カップルで「どっかで見た顔」ないし「だれかに似てる顔」がそろうのも、我ながら希だろうということだけはわかる。


そうなるとどうなるか。例えば、僕とハニーちゃんが駅やら街を歩く。そこで、僕とハニーちゃんの顔にだれそれの顔の面影を「勝手に」見取ってしまう人も、中にはいるかもしれない。
問題は両方を別の知人と取り違えるというパターンである。その人の中ではつき合っていないはずのA君とBちゃんが、一緒に手を繋いで歩いている!?その人はありもしない秘密を握ったと勘違いしてしまうだろう。そのA君とBちゃんは痛くもない腹をさぐられるかもしれない。
だが最も問題なのは、本物のA君が別のCちゃんとつき合っていたり、Bちゃんが別のD君とつき合っているケースである。勝手に浮気騒動に発展してしまうではないか。そう考えてみると、なるほど人騒がせなカップルである。


「僕とキミが並んで街を歩けば、いろいろな人を恋愛したことになるね♪」

赤坂プリンスの最上階のレストランで、そうささやいてシャンパン越しにハニーちゃんを見る予定は、まだない。
お金がないので。