いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

いつから日本人は大晦日に殴り合うようになったのか

もはや時代遅れ感のある年末年始の格闘技の話。
大晦日のDynamite!!と四日の「戦極の乱」では、中量級の「打撃対寝技」の頂上決戦ともいえるカードが繰り広げられ、エディ・アルバレスからは青木真也が、五味隆典からは北岡悟が、両試合とも打撃の雄を寝技の雄がねじ伏せるという形で、あっけなく一本勝ちを修めた。

これはここ数年のMMAの流れを変える、エポックメーキングな出来事なのかもしれない。
ミルコがK-1からPRIDEに移籍したあたりから、MMAの覇権はストライカー中心に回り出した。ストライカーは寝技に弱い。倒してしまえばこっちのものだ。グラップラーにとってのそんな「勝利の方程式」が成り立たなくなったのは、ストライカーたちによる「極められるより先に早く倒してしまえばいい」という新たな方程式、コロンブスの卵のような発想の転換があったからだ。PRIDEでは、シウバを始めとするシュートボクセ勢(彼らのプロフィールを読むとそこには「ムエタイ」とある)、ミルコや五味が台頭し、絶対王者ヒョードルだって、コマンドサンボ出身というバックボーンは見えにくい。反対に、この時代に割を食ったのはアブダビコンバットなどの寝技の勲章をもってMMAに参戦した根っからのグラップラーたちだ。

ただ、「グラップラー不遇の時代」が来たと必ずしも言えないのは、中にはその打撃中心のMMAで戦っていくために、何らかの処世術を編み出したファイターもいたからだ。ノゲイラ兄弟のように打撃を習得し、「撃ちながらも極めを狙う」という新たなファイトスタイルを模索する者もあれば、試合終了のゴングが鳴るまで徹底的に相手のポジションを制御して勝利をもぎ取るヒカルド・アローナのようなスタイル、さらには、根気強く最後まで相手を極めにかかろうとするジョシュ・バーネットのど根性スタイルは、時代は打撃を求めていても観る者の胸を熱くした。

それに対して、今回の二人の勝利は、また新たな時代の幕開けを予感させる。彼らの出した答えは、いわば「極められるより先に倒してしまえばいいというやつよりさらに先に極めてしまえばいい」だ。それは彼らのおよそ1分で終わっているという試合時間の短さを見ればわかるだろう。彼ら新世代は、打撃に対抗するためにプラスアルファの何かを探し求めるよりも、自分の一番の持ち味寝技の進化にその努力を注いだと言える。

このようにMMAでは、打撃の技術と寝技の技術の双方が追い越し追い越されの競争をやっている。これは、競争が激化すれば競技全体のレベルが上がるという現象の典型例だろう。

ところで、北岡対五味の試合終了後に面白い(というかほほえましい)場面があった。ライト級王座認定式の際に、なんと勝者北岡の方が五味のもとにかけより、再戦を要求したのだ。

 (動画の五分あたりから)

五味は二ヶ月前にも試合をして、さらにその時KO負けを食らっているため、今回の試合も決してベストコンディションではなかったはず。そこには、北岡独自のフェアプレー精神みたいなものがあったのだろうが、映像を見るに北岡のその要求の仕方はむしろ、五味に対する「懇願」のようにさえ見えた。
「頼むからまだ俺にあんたを越えさせないでくれ!」
もちろんこれは想像なのだが、彼の要求にはそんな心の叫びがあったように思えてならない。五味隆典というライト級のトップコンテンダーを破ったことで、北岡はとりあえず「一番」になった。しかし彼の内面には、五味を倒すことができたといううれしい気持ちとともに、「五味を倒して“しまった”」という後悔の念も同居していたのではないだろうか。彼は知っているのである。自分の強さが、追う者であったからこそ湧き出たものであるということを。
頂上を踏破すること。それだけに邁進していた彼が、その頂上に立って眺めた景色は絶対的な「無」であり、彼を襲ったのは目指すものがなくなったときにおぼえる倦怠感。強者が強くなれば強くなるほど弱くなるという奇妙な逆説である。そしてそれは何よりも、この試合に敗れた五味がかつて経験したことでもある。


チャンピオンになれたからといって、そこですべてが終わるわけではない。MMAの覇権はまた流転する。