いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

昨日のめちゃイケ


最近久々のヒットだった。
実はかつて深夜にやってた「Qさま!」で、似非催眠術師に催眠をかけられたらアイドルはどんな仕事(演技)をするのかという、今回と同じような企画をやっていたんだけど、さすがはめちゃイケ。見せ方が上手かった。


昨日のドッキリや一般的によく言う「逆ドッキリ」というのは、いわばメタ視点をめぐるパワーゲームだ。

昨日のだと、ドッキリカメラにひっかかったタレントを演じようとするタレントを観察するめちゃイケ、という構図になる。タレントの分裂した主体性(ドッキリにだまされるタレント/ドッキリにだまされてあげるタレント)をさらに、上から俯瞰してみるという、なんとも意地の悪い(かつおもしろい)企画。だまされるふりをしていたタレント自身からすれば、顔から火が出るほど恥ずかしい仕打ちだ。


旧来のドッキリは図式化すると次のようになる(↓の方向が観察対象、その上がそれに対するメタ視点)

「ドッキリカメラ」

「だまされるタレント」


単純な構図だ。


でもいつしか、タレントも「あえてだまされてあげる」という事態がおき始めた。「リアクション」という芸が確立されてからは、だまされることですらギャラが発生するようになったのだから。

「だまされてあげるタレント」

「ドッキリカメラ」

「だまされるタレント」


この「だまされてあげるタレント」(メタレベル)と「だまされるタレント」(オブジェクトレベル)は、もちろん同一人物のことであって、先に書いた分裂した主体のことだ。
で、今回のめちゃイケはというと、さらに複雑化する。

「だまされてあげるタレントの演技をおもしろがるドッキリカメラ=めちゃイケ本体」

「だまされてあげるタレント」

「ドッキリカメラ=架空のドッキリ番組」

「だまされるタレント」

となる。

でも考えたらすぐわかることだが、このメタゲームのみそは「これで終わり」がない、というところにある。つまりメタ視点は無限後退しつづけるのだ。
たとえば昨日のめちゃイケだって、「ドッキリカメラにだまされたタレントを演じようとするタレントを観察するめちゃイケ」ではなく、実は「ドッキリカメラにひっかかったタレントを演じようとするタレントを観察するめちゃイケの製作をたすけるため、あえてドッキリにひっかかったタレントを演じようとするタレントを演じていた」という仮説も成り立つ(元々の番組の正体はわかっていなくても)。
昨日のだって、あそこまであからさまに「ダメドッキリカメラ」を見せられると、その意図を読み取って、「あえて演技したタレント」がいたとしてもおかしくないはずだ(とくに頭の回転が速い千秋なんか)。


精神分析家のラカンは、「メタ言語は存在しない」といった。
つまり相手を笑う側に永久にい続けることは不可能なのだ。僕らは相手の背後をとったと思った瞬間、自分の背後もとられている。


そういう意味で、昨日のめちゃイケの提示した面白さは、面白くもありかつ恐ろしいものでもあった。