いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】「R100」とかいう「映画じゃない(笑)」ヤツ

世間がまどマギで盛り上がっている中、観てきた。
うーん。やっぱり擁護しにくい。

「非常に卑怯な映画やと思ってます。なぜかというと、ムチャクチャやろうとしてるんですけど、一応僕も社会人なんで、ある程度のルールには則っている。でもそれだと真の意味でのムチャクチャではないですよね。だからそこからはみ出したムチャクチャに関しては、アレのせいにしてるわけです(笑)。そうやってこの映画を成立させようと」
(中略)
「だから、松本監督も被害者なんです。卑怯です、徹底的に卑怯な映画なんです。それも含めやっぱりムチャクチャやし、そんな映画これまでなかったし。時間とエネルギーと、あらゆるものを大概つぎ込んでつぎ込んで、誠心誠意卑怯なことをしているので…もはや卑怯じゃないんですよ(笑)」
http://r25.yahoo.co.jp/static/r100/interview/index.html

これらの発言が許されるのは、例えば「地獄でなぜ悪い」のようなとんでもなく面白すぎて「卑怯」な映画を撮った監督だけであって、この映画を撮った監督の発言としたら、まさに「自己弁護」にしかならない。

「毎回、もうこれで最後かなあ、って思いながら撮ってます。この次アレ撮ったろとかは全然考えてなくて…。やめてもいいんですけど、やめられないというか(笑)。(謎のクラブの)ビルのエレベータのボタンを押したのは僕なんですけど、気がついたら吉本にメリーゴーランドに乗せられて、グルグル回ってるっていう(笑)」

同上

映画監督としての松本人志は、一貫して何がしたいのかよくわからないのだけれど、それはこのインタビューによく表れているような気がする。結局彼に撮りたいものなんてないのだろう。吉本に撮れと言われているから撮っているだけなのだ。
だからこそ、何を撮るかよりもいかに人に「奇抜だ」と思わせるか、それだけにしか興味がいってない。そのわりに、やっていることは大して奇抜でないのだから、どうしようもない。


松本がなぜ映画というジャンルに嫌われ続けるのかを考えたとき、2つのことが思い浮かぶ。
1つは、彼の芸風の即興性だ。フリートークにしても、コントにしても、そこには即興的で(かつては)天才的な発想があったはずなのである。
けれど映画というのはそういうものでない。まずはじめから終わりまで全体を構築しなければいけない。全体の構造がしっかりしていないと、映画として成り立たないのである。この計画性、とくに2時間あまりの長編を作る計画性が、松本には致命的にかけている。
もう一つは、この映画監督は映画的教養が足りないんじゃないか、ということ。映画に携わるようになってから松本は一貫して、「映画を壊す」と言っている。けれど、彼の撮るものはその多くが、すでに"映画でやられたもの"であって、その劣化した模造品でしかない。これからわかるのは、彼が映画の基礎的な教養を欠いているということだ。彼の映画に映画の引用がないのは、彼があえて引用しないのではなく、映画を知らないからだ。
一方で、この人は自身の世界観からは盛んに引用する。この映画でも、「すし」の件などはそうだし、このSMクラブの設定自体、彼がラジオ番組で関心を示していた風俗店に根差しているのでは、と推測する。

もっとも、片桐はいりのアレなどギョッとするところであって、2時間ずっとつまらないわけではなかった。「世界の珍獣」や、ごっつええ感じの「殺人事件シリーズ」など、肉体改変的なものへのこの人の怖いセンスには、今でもドキドキさせられるものがある。


松本最大の不幸は、映画を撮りはじめるずっと前から監督・北野武と比較されることを宿命づけられたことだ。その周囲の期待から、この人は第1作からずっと「監督ばんざい!」を撮り続けている気がするのである。それは本当に不幸なことで、実はもっと基礎から固めていった方がよかったんじゃないだろうか。

心から、「ビジュアルバム」へ戻ってきてほしいと思うばかりなのである。
さもなければ引退である。松本人志という壮大なサーガをこれ以上腐食させないために、それがいい気もしてきた。今の松本と吉本の関係は、ピークを過ぎた大ヒット作と、それを無理やり続けさせようとするジャンプ編集部の関係によく似ている。