いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ニッポンとウンチ

大学院の指導教官が(といっても僕はつい先日修了しましたが)、学部生のカリキュラムで開講している『批評・コラムを書く』というワークショップがあります。毎週、あるテーマでA4一枚の文章を書いてくるという、まぁわりと大変な授業なのですが、その講義で提出された文章がアップされるブログの方でだけ、僕も文章を寄稿させてもらっています。今回は長らく更新が滞っていたブログの試運転もかねて、その文章の転載を。
ちなみに今回のテーマは「日本」です。


すこしウンチの話をしたいと思う。
ここで読むのをやめようとした人はちょっと待って。どうして、僕らが毎日のようにしている動物的活動を、子どもじみた「下ネタ」とバカにするの?むしろそっちの方が子どもじみてるよ。
子どもといえば、小学生のころヒーローになるのは簡単で、体育の跳び箱で8段を飛べばよかった。ヒールになるのも簡単で、学校でウンチすればよかった。あのころ学校でウンチするのは大スキャンダルで、友だちにバレたら半日は口をきいてもらえない大悪党になれていたよね。


ただの思い出話かと思った人は、もうちょっと待って。ここからが本題。僕らは成長するにつれウンチを面白がる感性を失った。ありていに言えば大人になっていったんだ。
でも、肝心のウンチを汚いと思う感覚は、ほとんど変わってないだろ?
この感覚はよくよく考えてみたらおかしいんだ。僕らはウンチに手が触れることを極端に嫌悪するけど、実は四六時中ウンチに触れている。だって、実は数ミリだけ地表から浮いてるドラえもんのような高機能がついてない僕らのウンチは、出口へたどり着くまでに絶対に僕らの内臓に触れてるじゃないか。僕らはウンチをつねにすでに“さわっている”んだ。ではどうして、今まで触れていたウンチを汚いと感じるのだろう。


実はウンチが汚いという感覚はヴァーチャルなものでしかない。
僕らは自分の肛門から出たその瞬間から、今まで自分の中に住まっていたウンチを汚い物として「発見」する。大腸の粘膜をとおりすぎた瞬間、変わるのはウンチの方じゃない。僕らの頭ん中の方だったんだ。
僕らは頭の中で、身体でウンチが触れてよい部位(体内)と、触れてはならない部位(体表)との間にヴァーチャルな「境界線」をこしらえている。


この「境界線」、つまりお尻の穴と穴周辺というのは、何にもまして重要なことがわかってくれると思う。ここを境に、僕らは全くことなるふたつの「身体」をもっているのだから。だからこそ、きれいにして境目をはっきりさせておかなきゃだめなんだ。


そんな僕らの身体のヴァーチャルな「境界線」について、革命的な発明が約30年前に産声を上げた。ウォシュレットだ。
ウォシュレットを使った後の人生と使う前の人生はちがう。ウォシュレットによって、僕らの「境界線」はよりいっそうきれいになった。その恩恵を受けた僕らは、すでにウォシュレットなしでは生きられない身体になってる。


そんなウォシュレットを生んだ国、ニッポンに乾杯。
光栄なことに元祖世界の歌姫マドンナはウォシュレットをいたく気に入り、我が国を「ウォシュレットの国」として認知しているという。