いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】黒い天使は善悪の彼岸で軽やかに…実在した美しすぎるシリアルキラーを描く『永遠に僕のもの』

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 何年か前に、アメリカで「イケメンすぎる凶悪犯」というのが話題になった。その顔を見たことがあるが、なるほど確かにイケメンである。このように美という主観と善悪の価値観は、残酷なまでにすれ違ってでも存在し得る。本作『永遠に僕のもの』は、かつて10代にして11人を殺して終身刑となったアルゼンチンの美しい青年カルロス・ロブレド・プッチを描いた伝記映画だ。このカルロス、通称カルリートスをロレンソ・フェロという同国出身の20歳の青年が熱演している。映画は当初、軽い空き巣を繰り返していたカルリートスが、悪友とつるみ始め、次第に強盗や殺人といった重犯罪に手を染めていく過程を描いていく。

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↑実物のプッチ

 

 映画はカルリートスを、全肯定こそしないまでも、優美に軽やかに描く。劇中では脱獄シーンも描かれるが、こんなに泥臭さから無縁の、軽やかな脱獄シーンがまるであっただろうか。

 

 カルリートスを軽やかに美しく描く。その映画の基調は、冒頭で「僕は地上に降りてきた天使」と彼自身が独白したことでほのめかされている。
 
 彼が天使であることは、その身振りの軽やかさだけを担保しているわけではない。彼は、天使が重力から自由なように、地上の常識に束縛されない。だからこそ彼は、地上の「所有」という概念に縛られない。軽やかに他人の民家に忍び入り、軽やかに好きなものをとっていく。命の概念にも縛られないから、まるで朝飯前のような顔で、寝ている守衛に対しても引き金を引く。窃盗と強盗殺人にも彼の中で大した違いはない。その恐ろしさがわかってくるのは後半にかけてである。
 
 彼は盗りたいから盗ったのはない。ただなんとなく、盗ったのだ。
 
 そんな彼の犯罪に「意味」を授けるのが、悪友ラモンだ。工業高校でカルリートスと出会ったラモンは、親子共々とんでもない大悪党だった。
 
 まず、親父がすごい。カルリートスが家を訪れたとき、短パンから金玉丸出しだったこの親父、早速、その場で銃の試し打ちを息子の友だちに勧めるのである。そのあとも、泊まりに来たカルリートスが夜中にトイレに行ったら、浴槽に腰を掛けて脚に覚せい剤を打っていたのだから、キャラが強烈すぎる。この家族でも1本映画できるよ!
 
 閑話休題、それまで自由気ままに盗みを働いていたカルリートスの才能を活かすことにラモンと父親が目をつける。「混沌」のエンジンに「秩序」のアクセルが加わったのだ。そこから、ブロマンスチックなカルリートスとラモンの“俺たちに明日はない”が始まる。

 

 カルリートスが天使なら、ラモンは地上の住人といえる。、どういうことかというと、ラモンは合理主義者だ。バレそうな山には手を出さないし、自分のイケメンに商品価値があると分かれば、家業であろうと犯罪からは脚を洗おうとする。彼は合理的で、地上の重力の支配下にある。カルリートスとは異なる人種だ。
 
 対するカルリートスは繰り返すが天使だ。天使には重力は通じない。同じようにカルリートの脳裏に計算はない。勝手気ままに、そのときしたいことをする。次第にカルリートスとラモンの間にあった友情には亀裂が入っていく…。その先は、ぜひ劇場で見てほしい。 

 

 印象的なラストシーンは、カルリートスが映画冒頭と同じダンスを踊っている。状況もロケーションも全く違うにもかかわらずだ。これは、カルリートス自身に映画中、何の変化、成長もなかったことが意味する。彼は美しい天使だ。天使に成長という概念はないのだから。