いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

老人とリア充

こういう光景を想像してみてもらいたい。
ある一人のリア充が亡くなった。
ある一個人をぶしつけにリア充と評するのは、彼の歩んできた道がそう表現する以外に術がないほど、リア充中のリア充だったからだ。
彼は裕福な家庭に生まれ、何不自由なくすくすくと育った。
おまけに顔もよく、スタイルもいい。
勉強もできてスポーツ万能。
もち前のコミュニケーション能力をもって交友関係を広げ、彼の周りは子供のころからたくさんの友人であふれていた。
もちろん、物心ついたころから彼女というものもめったに切らせたことがない。
そんな彼を、リア充と呼ばずしてなんという。


葬儀には生前の彼の幅広い人間関係を象徴するかのように、多くの家族、友人知人が参列した。
元カノも大勢参列した(彼女たちがさお姉妹であることはお互い知らなかったので葬儀中に気まずい雰囲気になることはなかった)。
その中の一人がめそめそ泣きながら、しかし満足げな表情で遺影のなかで微笑む彼に向ってこうささやいた。
「あなたがいなくなるのは悲しい。けど、けど大往生だもん。しかたないよね」
ちなみに彼の死因は病死でも事故死でもない。98歳の彼を天から迎えにきたのは、老衰である。



なんなんだこれは思った人もいるかもしれないが、「おや?」と気づいた人もいるかもしれない。
この文章では彼の年齢を最初に明かしていない。
彼がリア充ということだけを示した。
しかしどうだろう。年齢については言及していない、にもかかわらず、ぼくらはこのリア充の「彼」が、あたかも若者である、というような錯覚をもたないだろうか。

リア充/非リアという2元論を、未だに多くの人が飽きもせず共有しているが、この2元論には致命的な盲点がある。


それは年齢だ。


リア充/非リアの視座を共有するわれわれは、充実したリアルを共有する人として、暗黙の前提で老人を除外している。
このことは大きな問題だ。

それは老人を無視しているからではない。
そうではなく、リア充を若くて健康的でないといけないという前提としていることが問題なのだ。


人間は誰しも老いる。
しかも、これからは高齢社会で、老人はどんどん増えていく。
それなのに、あたかも楽しいことは人生の前の方にしか起きないかのように見える今のリア充観が定着してしまうと、実際にぼくらが老いたとき、そこには絶望しか残らないではないか。
結局もって、ぼくらはリア充という言葉を使うことによって、自分の首を絞めているのだ。


え?それは、現にリア充と呼ぶにふさわしい生き方をしている若者だけに関係のある話で、そんなものとまったく無縁の同世代には関係ないって?
はたしてそうだろうか。
厳しい現実を生きるのには、たとえ届かないほど遠くにあろうと理想が必要だ。
しかしどうだろう。
剥き出しの現実だけがある老後。
そんなものディストピア以外の何ものでもない。


結局、老いても楽しいことがいっぱいあるぜということ(リア充イメージを時系列にそってより豊かにしていくこと)を声高にアナウンスする方向に向かわなければ、そこにはとてつもなく暗い未来が待っている。