いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

昨夜のノンフィックス


昨夜、といってもすでに日にちは変わっていたのだが、たまたまチャンネルを合わせていたフジテレビに、現代芸術家の大竹伸朗が出てきた。この人、一年前くらいにアエラの表紙を飾り、恥ずかしながらも僕自身はそのときその存在を知った。さま〜ず大竹にちょっと似ているなというのと、アエラが異常なほどに持ち上げるので気になって、そのあとでちらちらと作品は見ていたのだけれど、動く彼も彼の声も聞いたことはない。てなもんで、読書をとりやめ、テレビのミュートを解除したわけである。


番組は「NONFIX」というドキュメンタリーで、大竹が今夏に香川県直島という場所に造った銭湯の、その製作過程を追ったものだった。感想を言うと、…う〜ん、とうねりたくなる気分。悪い意味で言葉にしがたいというか…。ということでこれからその言語化にとりかかるわけなのだけれど。


ドキュメンタリーでは序盤、奇抜なアドリブでがんがん創作するスタイルのアーティスト大竹が乗り込んできたことで、彼に装飾される前の土台を作っていた建築関係者、いわば職人さんたちの戸惑う姿が描かれる。いや、職人さんたちの戸惑いを通して、彼のクリエーティヴィティや型破りなやり方を受けあがらせようとしていたというか。

もちろん、テレビの「ドキュメンタリー」なんてひとつのナラティブであって、ある二項対立の偽造や誇張によって成り立っているのぐらいわかっている。しかし、そのナラティブに当の対象がどっかりと乗っかりすぎている場合は、それだけともいえないんじゃなかろうか。


例えば、番組中盤あたりにひとつの問題が生じる。彼のアイデアで、船底を建物側面上部に引っ付けようとしていたのだが、危険性を考え念入りに接合した分、ねじみたいなジョイントが下から見えるようにむき出しになってしまっていたのだ。
それを問題にした大竹は、技術屋たちを現場に呼び、当該箇所を指差し、怒り口調で以下のようなこと(大意)で言っていた。


「テーマパークならいいんだよ。でもそれじゃあアートじゃないんだよ!」


酔った席でもなくいきなり、アーティストが一言二言程度でも「アート論」をぶち上げるのっていうのも、僕なんかからするとちょっとこっぱずかしいもんじゃないのかと、芸術家でない身でありながら思うのだけれど、彼の位置からカメラで撮られていることにに気がつかないわけがないし、カメラの回っていたところで「かましてやった」感がないわけでもなかったのではないか。


まぁそれはいいとして、ここで一気に僕の抱いた彼に対する「言葉にしがたさ」の根源に突き進みたい。要するに、僕がテレビを通してみた大竹伸郎というのは、「こんな風だろうな」とか「こんなこと言ってみたりするだろうな」というそれまでの芸術家像、芸術家言説というものと、ほとんど寸分たがわずにマッチしてしまっていたのである。


しかしその「芸術家像」も、「一捻り」くわわっているからこそ難しい。
「一周回って」という言い方を最近よく聞く。「"一周回って"面白い」とか「"一周回って"評価できる」とか。ひとつの価値観を突き詰めていった末に、真逆の価値に行き着くんじゃないか、という程度の意味だろう。見る者、聞く者の側からそれを言うと、「”あえて”面白がる」とか「“あえて”評価できる」になるだろうか。

そういう意味で、僕が昨日テレビを通して見た大竹の姿、聞いた大竹の言葉というのは、この「“あえて”芸術家っぽくしないという芸術家像」にほかならないのだ。彼がつけた銭湯の名前「Iラブ(本当はハートマーク)湯」なんて、そのへんのおっちゃんが酔った勢いで口ずさんでいた日には、とたんに周囲からの冷たい視線で蜂の巣になるだろう。寒くてたまらないのだ。

でも、彼がつけたからこそ、「”あえて”面白がる」ことができるのだ。彼が芸術家だからこそ、その一挙手一投足を麻生久美子のナレーションが丁寧に解説してくれるのだ。


問題は、この「“あえて”芸術家っぽくしないという芸術家像」というのも、ある程度時代が下るにつれて既存の「芸術家っぽさ」とは違う意味で「芸術家」っぽくなってくるわけで、つまり時代や社会となじんでいってしまうわけだ。

そういう意味で今や、あれも芸術家これも芸術家という、ひじょーに難しい時代なのではないだろうか、と思った。


ちなみに、「こういう人って、ぜってー情熱大陸とかに出てるよねきっと」と思いながら、これを書き始める前に先ほど「大竹伸朗」と入れて検索にかけたら、第二検索ワードで思いっきり「情熱大陸」が出てきた。


…とは言いつつも、当の銭湯「Iラブ湯」と直島、面白そうなので来年か再来年あたり、旅行がてらに言ってみたいとも思ったのであった。