いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「職歴なし還暦ニートの俺、失ったものの大きさに涙が止まらない」というスレを読んで

凄いスレを開いてしまったという印象。
職歴なし還暦ニートの俺、失ったものの大きさに涙が止まらない

スレをたてた人物は、18歳から親元でニート生活に入り、42年間テレビやネットなどのメディアに触れながら、食べては寝ての生活を続けてきたという。還暦を迎えた現在、80歳を超えた両親が病気などで衰えゆくのを見守る中、自分の人生について書こうとするとたった「2行」で終わってしまうということに、悲嘆しているのだそうだ。


前回ちょうど話題にしたが、「釣り」っぽい文章ではある。
まず、この状況自体がにわかには信じがたい。まぁ信じがたいからこそここで話題にしたくなったのだが、そんな状況下で42年間も放置される人物というSFのような状況が、想像しにくいことはたしかである。かつて「世にも奇妙な物語」で、老人にバケて悪さをした若者が事故に遭い昏睡状態に陥り、目覚めると本当の老人になっていた、というオチの話があったが、あのような感じか?
また、文章が60歳にしては妙に軽薄であるが、文体というのは人が思っている以上に可変的なもので、郷に入れば郷に従えよろしく、60歳の書き手でも毎日ネットに浸っていれば「2ちゃん文体」なるものを覚えていくものなのかもしれない。

とりあえず、この文章を「読んで思ったこと」を綴りたい。


スレ主の悲嘆の核にあるのは、「過程」を失った人生は味気ないということだ。
寝食に困らない生活というのは、一見するとぼくらが羨むような生活である。われわれがいまとりあえず働いているのは、寝る場所と食べることに困るのが嫌だからだ。特別な目標がないかぎり、これらの状況が整えば仕事なんて辞めてやると思っている人だって少なくないだろう。
けれど、このスレ主の悲嘆からわかるのは、そうした(寝食に困らないための)「過程」をすっ飛ばして(寝食に困らない生活という)「目的」だけを味わい続けることが、どれだけ味気ないかということである。仕事を代表とする人生上の「やっかいな懸案」の多くは、実はいなくなったらいなくなったで寂しいものだ。
たかだかニート経験1年であり、この人に手も足もでないぼくだが、この点は共感する。ニートというのは何も起きなかい「非歴史的」な経験なのだ。昨日も今日も、明日も同じのっぺらぼうの羅列である。そこには何も起きない。とくに「引きこもり」を併発している場合は、さらにそれに拍車がかかる。

スレ主はテレビを見続け、その後にネットに乗り換えたというが、おそらくそうしたメデイア受容の体験では、この欠損は補えない。
3.11などの公的な記憶、社会学者の鈴木謙介がいうような「メモリアル」はメディアを通して他人と共有できるが、それはおそらく、その人固有の「経験」にはならない。


もちろん、そうした「非歴史的」な体験にも耐えうる、むしろ大歓迎だ、という人も中にはいるかもしれない。
もしかしてこの先、以前話題となったベーシックインカムが本当に実現すれば、必要最低限レベルの暮らしに満足できる人には願ったり叶ったりだ。

けれど、「働かざるもの食うべからず」という社会通念以上に今のところ覆すのが困難なのは、時間は不可逆であるということ。
非歴史的に消費した若き日の時間は、あとでどんなに後悔しても戻ってこないのだ。