いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「◯◯は終わった」ってコピーはもうやめませんか?

きょうはフジテレビで毎年恒例の「FNS27時間テレビ」が放送される。今年のキャッチコピーは「テレビの時代はもう終わり?」「…でも俺、本気出しちゃいます」なんだとか。フジテレビ自身が「テレビの時代」の終わりを問いかける、ショッキングなものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=08q2anq4H9k:MOVIE
世の中には「◯◯は終わった」商法というのがあり、「映画は終わった」「文学は終わった」「大学は終わった」「日本は終わった」など、多種多彩である。

こうしたコピーのポイントは「負の自己言及」であることだ。「映画は終わった」も「文学は終わった」も「大学は終わった」も、基本的にはその◯◯業界内から発せられている。

そしてもうひとつのポイントは、ホントは全然終わってなんかない、ということだ。正確を記すると、そもそも何をもって「終わった」ことになるのかの定義があいまいなところから出発しているため、「意味のない言葉」なのだ。
畢竟、この「◯◯は終わった」というコピーは、人の目を惹きつけるための扇情的なコピーに終わることがしばしばである。

そして今回のフジテレビである。27時間テレビという同局きっての大イベントのコピーが、この「◯◯は終わった」商法に陥ってしまっているのだ。


ぼくはこの「◯◯は終わった」商法に否定的なのだが、その理由を「メンヘラ彼女」に当てはめて説明したい。
「◯◯は終わった」商法はメンヘラ彼女に似ている。どこが似ているかというと、ちょっと気に食わないことがあったらすぐに「わたしたち終わったのかな?」とこちらに聞いてくる、アレである。

メンヘラ彼女の発する「わたしたちもう終わったのかな?」は、自身と彼氏の関係への「負の自己言及」である。それと同時に、ホントは全然終わってなどおらず、ただただ扇情的なことを言ってこちらにかまってほしいだけのことが多い。つまりそれは「◯◯は終わった」商法なのである。


ところが、経験者はわかるだろうが彼女からアレを聞かれる側に回ると、結構精神的にキツい。嘘とわかっていても「終わった」とか「もう無理」とか言われると気分的にずーんと落ち込むのである。

フジテレビが80年代、「楽しくなければテレビじゃないじゃん!」というコピーとともに攻勢を強めたのはあまりにも有名だ。こんなポジティブな自己言及をしてくれるならば、言われる側はちょっと照れくさいがいい。こんな彼女は、落ち込んだときにも励ましてくれそうではないか。

でも今回のように「もう終わり?」と頻繁に聞いてくる彼女、いやでしょ? 


ここで「終わり」と聞いてくる側に心に留めておいてほしいのは、「終わり」と聞くことで「何か」は失われてしまうことだ。
その「何か」を名指しするのは難しい。ひとことでいうと「敬意」だがそれだけではない。そこには「(すぐに別れるとか言わない)こいつとはずっといても落ち着いていらられる」というこちら側の感じる「安心感」も入っていたりする。

「うちらってもう終わりなの?」と聞かれたとき、彼氏の中では気持ちが落ちこむと同時に「そんな言葉を簡単に口にするこいつとは一生は一緒にいられないな」という見切りがついている。当分の間は交際を続けるだろうが(別れるのもそれはそれでめんどくさいから)、一生を添い遂げる伴侶ではないなと、静かに、けどゆるぎない判断が下っている。

だからフジテレビを始めとする「◯◯は終わった」を使う諸君にも肝に銘じておいてほしいのは、「◯◯は終わった」を口にすることにより、受け手の短期的な注目は集めることはできたとしても、おそらく長期的、恒常的な関係を築く上で重要な「何か」は失われてしまう、ということなのだ。