いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】彼らの流儀/沢木耕太郎 ★★★★☆

彼らの流儀 (新潮文庫)

彼らの流儀 (新潮文庫)

多くの大学生をインドに送り込んだ『深夜特急』シリーズの著者で、個人的には大学の先輩にあたる沢木耕太郎の著作。

だいたいここで取り上げる本は面白いからとりあげているわけだが、その面白さというのにも、やっかいな類のものがある。面白さ=わけのわからなさというときがそれにあたり、わけがわからないのだからたいてい書評も難儀する。

という前置きから始まるのも、今回の本がわけがわからない面白さ、読後感を有しているからだ。
いや、わけがわからないというよりも「得体の知れない」と呼んだ方が適切だろう。
その「得体の知れなさ」については、著者自身が一番端的に評している。

『彼らの流儀』をあらためて読み返してみて、私にはひとつの小さな驚きがあった。それは、この三十三篇が、コラムでもなく、エッセイでもなく、ノンフィクションの作品とも異なるものになっていたということである。かといって、もちろん、虚構としての小説になっていたというわけでもない。コラムでもなく、エッセイでもなく、ノンフィクションでもなく、小説でもない。しかし、奇妙なことに、同時にそれらすべての気配を漂わせるものになってもいたのだ。少なくとも、私はかつてこのようなスタイルの文章を書いたことはなかった。

p.301

つまり、本書はジャンルが特定できないのだ。
あいにく沢木氏の著作はこれにあたるのが最初で(先輩すいません)、他の作品と比較する目をもちえないが、一般的に考えても「コラムでもなく、エッセイでもなく、ノンフィクションでもなく、小説でもな」く、かといって支離滅裂ではなく、一本の時系列に沿った意味が展開される文章を、ぼくは読んだことはない。


その特異さは、最初の一篇にあたる「ナチュラル」にすでに凝縮されている。
大学で野球に励む「息子」が「母親」のもとに帰ってきて、ある映画のビデオを観ようと彼女にもちかけるエピソードを、「母親」の視点で描かれている。
エッセイと呼ぶには書き手の存在が希薄すぎる。
ノンフィクションなのかというとそのようにも思えない。ノンフィクションならば、その記事の意図や背景が地の文で補完されているだろう。それが一切ないため、読者はあたかも小説を読むかのように、着地点のわからない道に誘われていくしかない。
では小説なのかというとそれもちがう。というのも、この「ナチュラル」の最後で、我々読者はこの「息子」がそのビデオ鑑賞を母にもちかけた意味とともに、彼の父が実在する日本プロ野球史上最高のスターであると知らされる。つまり、完全にこれは実在の出来事のようなのだ。

本書にはそのような「得体の知れない文章」が、三十三篇収められている。出来事は取りとめもないものから、悲劇的なもの、奇跡的なものまで多種多彩だが、「得体の知れない」読後感を残すことだけは共通している。


文庫版約300ページでも、あっという間に読み終えてしまった。そこには読者を引き込む氏の文章の力があってなのはもちろんだが、この本に関してはそれだけでない。
読んでいくうちに読者は、このつかみどころのない、得体のしれない文章の「正体」を知りたいという欲望が増進させられるのだ。必死になって掴みかけたところで、その「正体」は指と指との間をひょいとすりぬけ、また元の得体のしれなさに戻っていく。この本のページをめくるスピードに拍車がかかったのは、まさにその充足されない渇望のせいだと思う。