先日研究室でとある後輩と馬鹿話に花を咲かせている際、「こういうのって、あるよなぁ〜」と二人してしみじみとなった話題があった。
子供の頃――といいつつも、今でもたまに実家に帰ればそうなるのだが――家族で外食に出向き、席についてメニューを見るときのことだ。そのメニューを眺めるとき、子供がまず向ける関心事とはいったい何か。
それは写真映りよく獲られた食べ物の中から、実際に食べて美味いものは果たしてどれかを自分の少ない食の経験を頼りに見定めることでも、貪欲な胃袋を寝沈めるためにできるだけ量のあるものを選定するでも、実はない。
ずばり「値段」である。しかも、親にはそのことは内緒で。
僕が子供の頃、外食に出向いた際に一番気にしていたのは、実は値段だったのだ。もちろん自腹を切るわけではない。いや、自腹ではなく親のお金で食べさせてもらうごちそうだからこそ、そこでは人知れず値段を気にしていたのだ。だがそれは、親から「あんた安いもん頼みんさいよ(注文しんさい)」(広島弁)など言われたからではない。僕が僕に強いた「自主規制」なのである。
ではなぜこの「自主規制」を当時の僕(そして今もたまに)は強いたのか。考えてみればそこには、予想以上に複雑な思惑の絡み合いがあったと思うのだ。
親からしてみれば、おそらくはあの「好きなもの頼みんさい」という声に嘘偽りはなかったはず。いや、多少は後から伝票を見て心中穏やかでないこともあっただろうが、外食で子供に「好きなものを注文させる」というのには、親の親としてのメンツもあったのではないだろうか。
一方それに対して子供の僕からすれば、いったいどういう収支で営まれているかわからないはずの我が家の家計に対して配慮しながらも、その親のメンツを立てたいというのもあるし、さらに当時親から押しつけられていたであろう「無垢なる子供像」というものを壊したくもなかった。
つまり、親の「好きなものを頼みんさい」というのを、行間を読まずに応える自分を演じきりたいという気持ちと、親や弟などの他のメンバーの注文するものの値段との折り合いなど、緻密な計算をしてしまっている気持ち、両者の板挟みになっていたのだ。
この気持ちを、まさに代弁してくれたといえる曲があった。
- アーティスト: 浜田雅功と槇原敬之
- 出版社/メーカー: R and C Ltd.
- 発売日: 2004/11/17
- メディア: CD
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松本の書いた土着的な歌詞に対して、マッキーがつけたメロディが少々マイルドすぎるかなというきらいはあるものの、リリース当時は「親に気を使っていたあんな気持ち 今の子供にできるかなぁ〜♪」の節で、毎回「理解できますとも!!!」と応答したくなった。
僕のこの「子供の思惑」、当時は家ではもちろん、学校でもだれにも打ち明けられなかった。それは子供にとって家がまだとてつもなく大きなものだったからだろうか。上京した今となっては、いや今となったからこそ、友達や後輩に当時の心境を、面白おかしく語ることができる。
しかしそういう話をいろんな人とするうちに、どうも子供の頃はみんながみんな、少なからずそういう「思惑」を持っていたということを知った。その事実にどこかホッとする気持ちもあるが、同時にかつてナルシスティックに浸っていた自分の姿を恥ずかしくも思えてきた。
先にも書いたが、この気持ちは未だに潰えない。帰省した際には今でも外食はするし、そこでお金を払うのは依然親たちだからだ。そういう時、僕は「自分ルール」として「親よりも安いメニューを頼む」ということにしている。親に払ってもらうのにかわりないのだけれど、それでも額が安い分、心持ちは少し軽くなるからだ。それだけに、毎回親が先に決めるのを待ちながら、「高いのたのめ、高いのたのめ」と呪詛のように心の中で呟いているのである。
ところがこの「自分ルール」も、先日だべったその後輩と偶然にも共有していたらしく、さらに彼の参加する「ゲーム」は僕の参加するそれよりさらに制約が厳しく、彼のお父さんが、例えばうどん屋に行っても「素うどん」しか頼まないのでつらいと言っていた。