いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】フォックスキャッチャー

「コンプレックス」という言葉は日本語圏でポピュラーでいて多義的だが、その意味の一つに 劣等感がある。「誰々にコンプレックスを抱く」という時のそれは、劣等感という意味に近い。
本作『フォックスキャッチャー』は、誰かにコンプレックスを抱いたことがある人(誰にもコンプレックスを抱いたことが"ない"という人がいるのかという話だが)は、どこか心をザワつかされる映画になるかもしれない。1996年に起きたロス五輪のレスリング金メダリスト、デイヴ・シュルツ射殺事件の顛末を描いた作品で、弟で同じ金メダリストのマーク・シュルツによる同名著書の映画化だ。


実在のマーク自身はこの映画を事実と違うとして酷評しているそうだが、そうした騒動は映画化につきものだ。彼の言うとおり事実とは違うのかもしれないけれど、作品単体でみれば、劣等感というものがもつ怖さや滑稽さ、切なさを描き切っている気がする。

物語の始まりは1980年代中盤、母国開催のオリンピックで金メダルに輝いたマークだったが、自分がその成果にふさわしい扱いを受けてないことに不満を抱えていた。演じているのはチャニング・テイタムだが、ここでの彼の演技が素晴らしい。不遇な境遇にありながら、かといってその不満をぶつける対象もなく、また兄デイヴのように社交的に振る舞うこともできず、ただただ鬱屈としたものを溜め込んでいく姿が、ほとんど言葉を発していないのによくわかる。彼がただの"脳筋俳優"と違うことを示している。

そんなマークの前に現れたのが、スティーヴ・カレル演じる財閥の御曹司ジョン・E・デュポン氏。ジョンは国の英雄であるはずのマークの境遇を哀れみ(ネット風に言えば「もっと評価されるべき」!)、自前のレスリングチーム「フォックスキャッチャー」に彼を招き、支援する。結果、マークは世界大会で優勝し、ジョンとマークの蜜月の関係は強固なものになっていく、と思われたのだが……。


マークの前に現れたときには全能の神のような佇まいだったジョンだが、次第に化けの皮が剥がれていく。実は彼は、親の遺産を食いつぶす道楽息子で、レスリングに入れ込む背景には強烈な母親に対するコンプレックス(いわゆる"マザコン"というときのそれとは少し違う)があった。彼は優秀な選手を招いた上で、自らその「指導者」の地位に就くことによって、そのコンプレックスを払拭しようとしていたのだ。

マークにしても、世間から兄デイヴのおまけとして扱われることに嫌気が差している。
けれどデイヴはマークよりも人望が厚く、弟のあとに「フォックスキャッチャー」に加わると、すぐにチームの信頼を勝ち取り、またしてもマークは劣等感をたぎらせていくことになる。

こうしてみるとマークとジョンは実は似たもの同士のようにも思えるが、兄に対するマークの気持ちをジョンは思いやれず、さらに突き放すことによって、彼らの間には修復しがたい溝が生まれてしまう。
この映画が面白いのはこのように、レスリングというものすごくフィジカルな題材で、出てくるのも屈強な男たちばかりなのに、描かれるのはデリケートな心の動きであるというギャップだ。


所詮ジョンは素人であり、レスリング選手らの上に立つような器ではない。一方でレスリングの実力を伴い、チームメイトにも慕われるデイヴは、知らず知らずのうちに「指導者」ジョンの脅かすことになっていく。
ジョンがこだわる「師匠」や「指導者」とは、なろうと思ってなれるものではなく、それ相応の資質を持った人(たとえばデイヴ)が知らぬ間になっているものなのだ。

その現実を受け入れられないジョンがどう動くかは、ぜひ劇場で確認してもらいたい。