いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

誰にも強要しない宗教

直木賞をとった天童荒太著『悼む人』を読了(この人の長編は、『永遠の仔』にしてもやたら長い)。


死した人の死にまつわる事(なぜ死んだか、誰に殺されたかなど)ではなく、その人が生前に「誰を愛し、誰に愛され、どのようなことをして誰に感謝されたか」を知り、それを深く胸に刻み込む(悼む)ことで「死者を生かす」ということを主人公は思い立ちはじめるのだが、日本を渡り歩くうちに「悼む人」と呼ばれるようになっていく。
精神分析的に興味深いのは、この「悼む人」が強迫神経症に見えなくもない、というところだ。「悼む人」は、悼む対象を主に新聞や雑誌の記事で探すのであるが、その様相はほとんど虱潰しといっていい。そこには、絶対に死者を逃してなるものかという執念さえ感じる(といっても、すべての悼みを懇切丁寧に行われるのだが)。
例えばこんな件。ある人の死を知って現場におもむいた彼の帰りが遅くなる。なぜ遅くなったのかというと「悼んだ先で、別の悼む相手を紹介してもらって、つい足を延ばし」(394p)てしまったからなのだそうだ。


ここを読んだとき、はたと思った。例えが悪いかもしれないが、これは僕の「RPGをプレイしているときの、設けられた部屋はどれも見て回らなければ気がすまない(不安になる)」という癖に似ているのだ。家のカギをちゃんとかけたか、ガスの元栓をきちっと締めたかなどを、何度も戻って確認してしまうのが一般的な強迫神経症の症例である。ジャック・ラカンが「人は誰もが神経症」と言ったように、病院にかかっていなくても私生活に支障をきたさない程度には誰もが強迫神経症的な「癖」を持っている。スタンプラリーの、そのすべてのスタンプを集めなければ気がすまないというのも、強迫神経症的な気質のひとつである。もしかすると、この「悼む人」にとってのスタンプラリーのマップとなっているのが、いたるところに「死者」がマッピングされた日本地図なのかもしれない(さらに共通点を述べると、彼が悼む理由と同じように強迫神経症者は、その行動を行わないと不安と罪悪感に駆られるからそれをするのだ)。


閑話休題。読んでいくと、この悼む人の「悼む」という営みが限りなく宗教に似ているような気がしてくる。どんな大悪党も一生のうち、一度は愛しされ愛され、感謝されたという、きわめて頼りない根拠一点において、彼は死者を心に刻もうとするが、それは一種の信仰ではないか。作中でも他人から何度もそう勘ぐられるのだが、本人は何度も否定する。

ここで、この彼の営みと宗教、何が違うのだろうと考えると、それは誰にも強要しない、ということに尽きるのではないだろうか。彼は日本中を歩き回るが、その行為や考え方を誰にも押し付けない。聞かれたら答える、ただそれだけのことなのだ。悼む人が旅先で行うのは、いわば死者の人生の「物語化」だ。しかしその物語が、人に共感されなくても別にかまわないと彼は思っている。


一方宗教とは、世界観を提示する営みだ。それは「世界はこうやってできてますよ」ということを説明しているのであるから、つきつめて考えれば「イスラム教圏」とか「キリスト教圏」とかいう言葉は、実は「宗教的」には矛盾していることになる。宗教的に考えれば、「その外には何もない」のだ。だから、「その外にも何かある」と考える人にはひどく冷たいし、場合によっては暴力さえも振るって考えを改めさせようとする。


しかし悼む人、彼は自分のやっていることの肯定を他者には強いない。彼はあくまで自己満足として続けている。ここにおいて「悼む」とは、宗教や信仰ではなく、彼個人の「生き方」なのだとわかる。


ポストモダンは、人が観念的になっていく時代だと僕は思う。実際に起きたことを、どう解釈付けるか。その解釈如何で、その出来事(死)という事実が変わるわけではない。それはそうなのだけれど、大きな物語(例えば宗教やイデオロギー)が共有されなくなった後、ものごとをどう考えるかということの指針として頼ることができるのはその解釈や意味づけという「小さな物語」なのであって、彼のように人の死をごく個人的に「物語化」して所有するというのは、もしかするときわめてポストモダン的な「症状」なのかもしれない。