いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「家事」あるいは「夫婦」についての優れた言葉達

無意味に本ばかり読んでいてもたまにはいいことがあって、それは点と点をつなぐように、本と本の内容が頭の中でリンクするときだ。


今回は「家事」あるいは「夫婦」について、膝を打った記述を紹介してみたい。
まずは、昨年のTwitter文学賞で1位を獲得した松田青子『スタッキング可能』に収められた「もうすぐ結婚する女」から。
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「もうすぐ結婚する女」とはいったい誰かというと、作中では「もうすぐ結婚する女」としか書かれていないのだけれど、本作はそんな「もうすぐ結婚する女」と「私」の不思議な物語。
「もうすぐ結婚する女」と夕食を食べた「私」は、自分がやっている「テーブルを拭いていること」や、「もうすぐ結婚する女」がやっている皿洗いが、「家事だとはどうしても思えない」という。

家事って一体なんなのだ。洗濯や炊事、生活していたら当然必要になる行為のあれやこれやに家事だなんて名前が付くのは合っているのだろうか。急に義務みたいになるではないか。今でも一人暮らしをしていて、自分がやっていることをいちいち家事だと意識しながらしたことなど一度もない。いつもなんとなくやっていた。もうすぐ結婚する女だってそうだと思う。なのに他人同士が同じ家に暮らすことになると、それらの行為の総体が急に家事になる。突然深刻味をもって目の前に立ち上がってくるのだ。家事は立体だ。その途端、分担だの負担だの考えなくてはいけなくなる。そのうちどちらかに自分の方が家事を多めにやっているなどという不満が芽生えはじめ、それが諍いの原因になり、二人とも疲れてしまうような、そんなの合っているのだろうか。結婚しなければ、皿を洗うという行為は純粋に皿を洗うという行為であるのではないか。私は皿を洗うという行為を家事になんてしたくない。私たちは皿洗いを家事にせずどこまでやっていけるだろうか。

pp.167―168


ぼくはこの箇所に、ハッとさせられた。そうだ。一人暮らしに家事は"存在しない"。それは、「家事だと意識」などせず、「なんとなくやって」いるものなのだ。
それが、である。それがいざ共同生活になったとき、醜い争いが始まる。料理や洗濯、掃除、皿洗いは「家事」として「突然深刻味をもって目の前に立ち上がってくるのだ」――そうそう、まさにこの感じ。ぼくの感覚とジャストフィットする。
あれは単純に、皿を洗う枚数が増える、洗濯する服の枚数が増える、といった「仕事量の増加」ではない。複数の人間が住み始めたとき、そこにいつのまにかポッと鎮座する厄介なものなのだ。
最後の2文、「私は皿を洗うという行為を家事になんてしたくない。私たちは皿洗いを家事にせずどこまでやっていけるだろうか。」これにぼくは完全にやられてしまった。

ちなみにこの短編集、おせじにもエンタメ作品とはいえず、純文学に片足つっこんではいるけど、それでも所々クスッとなる記述や、上記のようなハッとさせられる言葉があって、お勧め。


で、この「家事」についての箇所を読んでいた時に思い出したのが、思想家の内田樹氏による夫婦論だ。短いのでそのまま引用する。ここまで短く、端的に芯をとらえた夫婦論をぼくは知らない。

 「合理的な人」は結婚に向いていない。
(中略)
 というのは、人間の社会は一人一人が「オーバーアチーブ」、つまり「対価以上のことをしてしまう」ことによって成り立っているからである。
(中略)
 結婚もまったく同じである。
 「夫婦」は企業と同じく、配偶者それぞれが「夫婦」という集合体に投資することで成立する。配偶者たちがそこに十分な投資を行い、状況の変化に即応できるフレキシブルなビジネスモデルを組み立てるならば、「夫婦」は生き延びることができる。
 反対に、自分が投資したもの(金、時間、労力、気づかい、忍耐などなど)に対して相手から「等価」のリターンを求めると、「夫婦」は潰れる。それは営業マンが彼の努力で成約した取引から得られた利益の全額を「オレの業績だ」と言って要求することを許せば、会社が潰れるのとまったく同じ原理なのである。
 そのことに気づいている人はまことに少ない。


既婚者の話を聞いていていつも思うのは、「夫婦」というのはただ夫と妻の2人を指している言葉ではないということ。それは、2人が営んでいく組織体なのだと、そういう感覚を抱かせる。
この引用部は、ぼくのその感覚とかなり近いといえる。組織から自分の成果分をゴッソリもっていってしまえば、その組織が成り立たなくなる。そこには必然的に、組織の成員たち(ここでいうなら夫と妻の2人)が、「オーバーアチーブ」(柔らかく言い換えれば、頑張り過ぎ?)することが求められることになる。
先の『スタッキング可能』の引用部と引き合わせてみると、「諍いの原因」とは、実は共生し始めた途端に立ち現れる「家事」そのものではないかもしれない。家事そのものでなく、それを「分担だの負担だの」とめざとく等分しようとする"等価交換"の思想にこそ、火種があるといえる。

ただ、である。
「オーバーアチーブ」するにしろ、双方がそれ相応の「オーバー」をしてくれるならまだしも、片一方だけが突出して「オーバー」し、もう一方が受益を被ってばかり、というカップルも少なくない。そうしたカップルもどうすればいいのだろう?


ここで、書籍ではないが最近話題になった明石家さんま師匠のラジオ番組での言葉を引いてみたくなる。

明石家さんま、「努力は必ず報われる」と思う人に「見返りを求めるとロクなことがない」 | 世界は数字で出来ている

さんまは、「努力が報われるだなんて、絶対に思ってはいけない」とし、そうした考え方の人を「結婚生活失敗するタイプ」だと断言する。なぜなら、努力は報われるという発想に立ってしまうと、結婚生活でも「こんだけ努力してるのに、なんで?」と不満が募っていってしまうからだ。
そうした考え方を退け、彼は「好きだからやって」いる人、「見返りなしで出来る人」の方がよいのだと、主張している。


これが、内田氏の「夫婦オーバーアチーブ」論への一つの答えなのだと思う。オーバーアチーブをしながらも、そこに努力報酬型の考え方があれば、いつかは挫けてしまう。けれど、それがもしただ「好きだからやっているだけ」ならばどうか?
「相手にしてあげたいからやっている」という思想は、おそらく「相手にしてもらいたいからやっている」=努力報酬型の思想より、耐久性が強い。なぜなら、相手がしてくれなくても回り続けるシステムだからだ。


では、ぼくたちは、いったいどんな相手に「してあげたい」と思うのだろう。ここは、言わずもがなだろう。
回り回ってきたこのコラムだが、最終的には結婚、同棲は「損得勘定なく本当に好きな人」とした方が上手くいくという、当然の帰結におちつく。


ではなぜ、非婚化晩婚化が進み、若者が結婚をためらうのかって?
おそらくそれは、ぼくらが我がままになったからではない。そうでなく、「相手にしてあげたい」と思うその気持ちが一生分もつか、それがたまらなく不安だからでないかと思うのだ。