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85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

『竜とそばかすの姫』レビュー 説得力がない3つの理由

細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』を観てきた。

竜とそばかすの姫 (角川文庫)

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インターネット上の仮想空間<U>(ユー)で人々が自分の分身<As>(アズ)を操れるようになった世界を舞台で、“歌姫”Belleとして才能が開花させた田舎の女子高生・鈴。現実と<U>のギャップに戸惑いながら、Belleとして脚光を浴びていく彼女の前に、突如として現れた<U>内の嫌われ者“竜”。彼の背中のアザが気になったBelleは、徐々に心を通わせていくことになる。

 

<<以下多少のネタバレ含みます>>

細田守監督の自己言及的作品?

本来は引っ込み思案で、表に出たがらない鈴=Belleを通じて描かれるのは、「ネット上の賛否を含む多様な意見の豊かさ」、そして「他者に向けて表現を発表していくことの尊さ」だ。

Belleの歌に最初から誰もが惹かれていたわけではない。最初は難癖をつける者、批判的な者がごろごろいる、ということも描かれる。

批判の多さにビビる鈴だが、そこで彼女の親友、ヒロちゃんが「肯定しかされない奴なんてコアなファンだけな証拠」「(賛否両論ということは)半分には評価されてるってことじゃん」(大意)と勇気づける。

ヒロちゃんの言うとおり、100人が100人とも評価するような表現なんて存在しない。批判する人がいれば、評価してくれる人だっている。本作は、ネット上の豊かさを肯定しつつ、その中で表現していく勇敢さを称える。

 

ただ…少しイジワルな見方をしてしまうと、本作は「細田守監督が細田守監督を鼓舞するために作った」側面もあるのではないか、と鑑賞中に考えてしまった。

思えば、細田監督の過去作は、特に描かれる価値観を中心にして常に賛否が割れてきた。特に前作『未来のミライ』は、前々作の『バケモノの子』から興行収入がほぼ半減する惨憺たる結果に。ぼく個人的には、正直内容的にもちょっと惹かれず、恥ずかしながら劇場で寝てしまい(ごめんなさい!)、今回配信で見返すことになってしまった。

ネット上での表現に対する反応は多種多様であり、それでも臆せずに表現し続ける勇敢さと尊さ。本作が描いているメッセージの一つは、細田監督が細田監督という表現者に向けて作った映画のようにさえ思えてくる。

 

ただ、「賛否両論ということは支持している人もいるということ」というメッセージを作品の中にビルトインすることは、諸刃の剣でもある。

というのは、このセリフは『竜とそばかすの姫』というこの作品に対しての批判についての「牽制」としても作用してしまうのだ。「まあ、この作品を批判する人もいると思いますけどね」と、前もって釘を刺されたような気がして、あまり気分がよくないでないか…。本当はいい作品だったら手放しに褒めたいのに!

ということで、以下、あまり本作に乗れなかった浅ましい人間の書いた感想であり、その点を理解いただける人だけお目汚しください。

 

■ “竜”が悪いやつに全然思えない!

ぼくは本作について、特に『サマーウォーズ』以降の細田作品と同様に、あまり気持ちが乗れなかった。そして、それはいくつかの点において「説得力」を欠いているせいだと考える。その説得力の欠如について、言語化してみたい。

 

まずは“竜”について。“竜”とその正体を通して描かれるのは、「誰にも理解されなくても、誰かが理解して手を差し伸べてくれるはず」というネット上の“救い”といえる。「正義」の名のもとに断罪されようとする“竜”だったが、Bellは彼の“背中のあざ”の理由が気になり、彼の素顔に迫ろうとする。

しかし、この“竜”が説得的には思えない。というのも、「竜はこれだけ悪いヤツで、これだけ嫌われるのは自業自得」という描写がほとんどない。どうも<U>上のバトルゲームでラフプレーしていることで嫌われているようだが、それも伝聞で、直接描かれることはない。あくまでも“竜”のラフプレーはゲーム上でのことで、<U>上の誰彼かまわず襲っているわけでなく、絶対悪とは言えない。それだけに、あれだけ嫌われるというのは説得力が弱い。

劇中では、Belleとの初遭遇シーンで、ジャスティンという<As>が率いるジャスティスという自警団と戦闘し、やっつけるのだが、それも別に“竜”が悪いようには思えない。戦闘は自警団側から襲いかかってくるから起きているのであって、竜は正当防衛しているようにしか思えない。

このように、“竜”について「そりゃコイツは嫌われるわ。自業自得」というシーンが一度もないため、その後の「実は彼にはこういう事情があってね…」という展開に対してのフックがいまいち効いてこない。

■ “本人特定”だけが信頼を担保するという不自由さ

それから、ストーリー上で首を傾げたのは、“顔出し”に対する観念である。

ジャスティスの目的は、“竜”という<As>の正体、つまり現実世界での本人を白日のもとに晒すということである。

このこと自体には特に異論はない。なぜなら、ジャスティスとそれを率いるジャスティンは、劇中で「行き過ぎた正義」を司っており、「本人特定」という少々やりすぎな側面は、「行き過ぎた正義」の一つの側面といえる。言うならば、「こぶとり爺さん」におけるこぶを付けられる側の「いじわるな爺さん」の価値観を表現していると言える。

 

しかし、“竜”の正体まであと一歩までたどり着いた鈴=Belleたち。そこで今度は、鈴が自らの素顔を晒して、信頼を担保しようと動くのであり、そのことについて本作は肯定的に描いている。結局、“顔出し”や“実名”という“本人特定”が、信頼を担保するという点で、ジャスティスと価値観が一致しまっているのだ。

 

ぼくらがここ20年近い年月をかけて育んできたのは、実社会と地続きのネット社会とはべつに、実社会から切り離されているからこそ自由になれる、というネット社会のもう一つの側面ではなかったか。

細田監督は「ずっとネットを肯定的に描いてきた世界で唯一の監督」という自負があるようなのだが、その点ではむしろ、「やはりネットは現実を超克できない」という考えなのではないだろうか。『竜とそばかすの姫』での最後の展開(突如としてぼっ発したヒロインの旅!)も含め、“実社会の本人が特定されてこそネットは信頼できる”という価値観に息苦しさを覚えてしまうのである。

■ 気持ちがノレなかった一番の理由は「歌」

そして、何よりも乗れなかったのは、鈴=Belleの歌である。

しかし、この件について即座に否定したいのは、なにも鈴の声と歌唱を担当した中村佳穂さんの力量不足を指摘したいわけではない、ということだ。

彼女個人の力量の問題というより、これは歌の威力に頼った本作の難しさである。ただ単に「登場人物が歌を歌う」ことが難しいのではない。「登場人物の歌が聴衆を魅了する(物語が展開する動因になる)」という描写がつきまとう困難である。

本作を含め、「歌の威力」が物語の動因にする場合、格段に難易度があがる。なぜなら、それは「劇中の聴衆」のみならず、「作品の鑑賞者」の琴線に触れ、納得させなければならないからだ。作品が「歌の威力」に頼るのが難しいのは、そこに理由がある。今回、少なくともぼくは、中村さんの歌で「聴衆が魅了される」というストーリーに説得されなかった。

でもこれは中村さんが悪いとは思わないし、彼女に歌唱力がないというわけではない。言うならばそれは、「ジャンル」の違いだったように思える。シンガーソングライターの彼女の持ち味はやはり「作家性」であり、「味」だろう。

しかし、万人を瞬時に圧倒的に魅了するのは、もっと爆発的な声量で圧倒するタイプの歌い手ではないだろうか。例えば、そこらへんにいるようなおばはんが1フレーズ歌っただけで会場をあっと驚かせたり(スーザン・ボイル)、ケータイショップ店員が突如としてスターになったり(ポール・ポッツ)。そのほか、オリンピックの開幕式で君が代を歌ったばかりのMISIAも、初めて聞いたときは衝撃だった。もしかしたらBelleに求められるのは、そうしたたぐいの歌唱力だったのではないかと思う。

中村さんの歌は、やはりそういうタイプの魅力ではないので、だから説得力を見いだせなかったが、「歌」の感想となるともう個人の趣味趣向が強く作用するので、分からない。

 

と、このように、すごく書きにくいことを書きにくそうに書いてしまったのだが、安心してほしい。賛否があるということは半分は支持しているということだから! 細田監督、そうだよね!?