ロッキー・バルボアの盟友アポロの息子アドニス・クリードを主人公に迎えたボクシング映画第2弾、『クリード 炎の宿敵』。
念願の世界チャンピオンとなったアドニス(マイケル・B・ジョーダン)の前に、父アポロの宿敵イワン・ドラコ(ドルフ・ラングレン)とその息子ヴィクターが現れ、宣戦布告。セコンドにつくロッキー(シルヴェスタ・スタローン)は相手にするなと止めるが、アドニスは聞く耳を持たず、リングに上がるのだが…。
ストーリーは呆れるほどに単純明快だ。強い敵が出てきて敗北、なにくそと特訓! 特訓! 特訓! 特訓! を重ね、リベンジに挑む。ともすれぼ、ベタだとかありふれているとさえ思われかねない。
しかし、本作は「ありふれている」や「ベタ」といった見方とは別次元のところにある。教科書の重要な箇所は下線を引いて何度も読み返すだろう。それと同じだ。
『ロッキー』から続くその大切なメッセージとは何か。それは「テメエはテメエの人生を戦え」。ボクシングという1対1のスポーツがテーマのシリーズだが、実はこのシリーズが教えてくれるのは「自分の人生を戦えや、コラ」ということなのだ。
だから今作も単なる「仇討ち」と捉えてはならない。
たしかに、父アポロをリング上で殺した敵イワン・ドラゴと、その息子ヴィクターが登場する本作であるが、本作のメインテーマは「父親の敵討ち」や「復讐」ではない。
それは、『ロッキー4』の内容の薄さの原因とも繋がる。
怒る人がいるかもしれないが、ぼくにとってシリーズでもっとも内容が薄く感じられるのは、本作と大きく関係する、アポロとロッキーが父ドラコと対決した過去作『ロッキー4』だ。
“米ソの代理戦争”という派手さがある反面、見返してみて物足りないのは、そこに「仇討ち」というテーマしかないからだろう。アポロの仇を討つためにリングに立ったロッキーには、内発的な戦う理由がない。それは『ロッキー』シリーズの本質と少しちがうのだ。
本作でわれわれの感動を誘うのは、ドラコ親子の描写である。
30年前のロッキー戦の敗北によって栄光を奪われ、妻に裏切られ、国を終われた父イワン。そんな父の背中を見て育ち、極貧の生活の中で父と鍛錬を重ねてきた息子ヴィクター。ついに栄光が手に届く寸前のところで垣間見られる親子愛にわれわれはグッとくるのである。
アドニスとヴィクターの対決が熱いのではない。アドニスの人生があり、ヴィクターの人生がある。アドニスが自分の人生を、ヴィクターが自分の人生を戦い、その2本が線が交錯する。だから、クライマックスとなる2人のタイトルマッチは感動を禁じ得ないのである。
したがって、『ロッキー』シリーズにも、今後続くであろう『クリード』シリーズにも「目新しさ」を求めるのはナンセンスだ。これらのシリーズは定期的に見返して枯渇した精神のガソリンを補充するためにあるのだから。