いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】コンビニ人間/村田沙耶香

コンビニ人間

コンビニ人間

もうすでにたくさんのブックランキングで1位を獲ったり激賞されたりしているので遅きに失した感がありますが、「コンビニ人間」面白かったです。

読む前「コンビニ人間」と聞いて、もっとネガティブなストーリーかと思いました。
ことにフィクションにおいて、コンビニはネガティブに扱われがち。どこにでもあってありふれていて、無機質で無個性で。真夜中でも煌々と照り続けているその蛍光灯の明かりは、肯定的な意味はあまり見出されません。


あんなに利用されているのになんかかわいそうではあったんですが、そんなコンビニで働くことが生きがいなのがこの物語のヒロイン、38歳未婚、彼氏なしの古倉恵子。


古倉さんの目線から見たコンビニの光景は、これまでのそれとはまるで違う。
コンビニにはコンビニの数だけ、そこに配列があったり、工夫があったりする。そこには客として店員として人が行きかい、店舗それぞれに血脈が流れている。コンビニ店員も、非人間的で機械のような職業ではない。古倉さんのようにコンビニの「部品」となることによって、強く生を感じる人だっているのです。


死んだ小鳥を父親の好きな焼き鳥にしようと提案しちゃうなど、子どもの頃からどこか他人への共感能力がちょっと低い古倉さん。
みなが思う「普通」にどこか適応できなかった彼女ですが、学生時代から愚直に続けるコンビニバイトを通して「普通」を「擬態」しているのです。


会社の歯車になるから人間的でなくなるのではなく、地が人間的でない人が会社の歯車になることで人間性「擬態」するという逆説。
実はこの話、ぼくはわからなくもないのですね。本来は破滅的なはずなんですが、仕事で「型」に当てはまれるからこそ、会社の「歯車」になるからこそ、人生なんだかんだ踏み外さないでいるところもなくはない。
もちろん作品は、周囲の人間の持ち出す「普通」を肯定的に描いているわけではなく、古倉さんがしたたかに演じる「普通」の「擬態」にまんまとだまされる彼らの滑稽さを切り取るわけですが。


ただ、この小説、どうも読む人によってはそんなにいい話に思えないらしいのですね。
たしかに「擬態」したからといって、古倉さんにクレイジーな部分がないわけではない。おいおい、コンビニの「声」が聞こえるとか言い出したぞ、みたいな。
「仕事に毒されている」といえばそれまでですが、ぼく自身は好意的です。
今の時代、「Xのために私は生まれてきた」っていえる人がどれだけいるでしょう。一生かけても、代入すべき自分の「X」を見つけられないまま死んでいく人が大半です。
そんな中で、古倉さんには自分の「X」たる「コンビニ」がある。こんな幸せなことってあるでしょうか。ぼくにはこの物語はハッピーエンドにしか思えない。自分が生きる意味を知る人は、この時代最も幸せなのではないでしょうか。