いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】SCOOP!

モテキ」「バクマン」などで知られる大根仁監督の最新作。中年パパラッチを福山雅治が演じています。奥さんマシャですよマシャ。相変わらず彼はかっこよくて、演じている都城静は、くそダサいパーマにガラシャツ、その上からおっさんがよく着てそうなレザーのジャンバーを羽織っているのですが、まあそれでもカッコいい。あの風体で「カッコいい」と思えるのは福山ぐらいのもんです。リリーフランキーの上下グレーのスウェット姿も違う意味でキマっていましたが。

ストーリーは、静が、かつて在籍していた週刊誌「SCOOP!」に舞い戻ってきたところから始まる。旧知の副編集長(吉田羊)の命令で、静は嫌々ながら、新人記者の行川野火(二階堂ふみ)とタッグを組み、スクープを追いかけることになります。

静は下ネタ大好き昭和中年オヤジで、ことあるごとに野火にセクハラをし、「最低…」といわれる。中身もなさそうなペラッペラのおじさんなのですが、結論からいいますと、どうもこの映画自体がペラッペラであることが否めません。

静と野火は次々にスクープをあげていく。……のですが、そのロジックがよくわからないんですよね。本来なら、野火の特技なんかが実はパパラッチ活動に効果てきめんなリーサルウェポンだったとか、静と野火のふたりだからこそできるスクープの撮り方があったとか。何でもいいんですけど、そういうロジックがいるはずなんです。たぶん、静と野火に対して、世のパパラッチさんたちはスクリーンに向かって「それぐらいでスクープ上げられたら苦労しないよ!」とツッコむはずです。

たしか「バクマン」では、主人公たちがヒットさせるためのロジックを局面ごとにこしらえていたはずです。だからこそ、すんなり話に入れた。そういうロジックもなく、静と野火はただただなんとなく、スクープをものにできていってしまう。そこにどうしようもなく違和感をもってしまいます。

バクマン」とのつながりで言うと、「他者の不在」も気になりました。先ほど、他のパパラッチの話をしましたが、今作においては他社との売上争いや、他のパパラッチとのスクープ合戦もない。そしてなにより、スキャンダルを撮られた取材対象者の「その後」が全く描かれない。これにもちょっと違和感を持ちます。

2016年ですよ奥さん。今年はいっぱい芸能スクープあったじゃないですか。それらがどれだけ被写体の人生を変えたかを、我々は目のあたりにしたわけです。別にスキャンダルを撮るなという話ではないのですが、そういう波及効果もみず、目先の売り上げ部数だけでうぇーいうぇーいと一喜一憂する描写には、こいつら真性のバカなんじゃないかと思わされてしまう(※ただ付け加えておくと、この映画の企画は84年公開の「盗写1/250秒」に魅せられた大根監督が7年も8年も前から温めていたリメイクで、クランクインも昨年10月と、SMAPベッキー乙武さんも平穏無事に生きていた時代です。そういう点から、「ぼくが観た時期」が悪かっただけかもしれません)。

それから、作中ではニュースの貴賤(芸能ニュースは低俗で事件系・社会系のニュースは高尚というある種の差別意識)の問題もいちおう出てくるのですが、その結論も中途半端。こういうのって本来は、結果的に「そういう価値観は嘘だよ」っていう脱構築があるべきだと思うんですが、どこでどう間違ってか、結果的に差別を強化してしまうところがあります。非常にありがちではありますが。

そしてクライマックスですよ奥さん。公平を期すためにいいますと、”あの展開”については劇場でもそこそこ鼻をすする音が聞こえました。つまり、感動した観客もいたようです。ただ、ぼく個人的には、かなり唐突で強引で、取ってつけた感しかありませんでした。ネタばれを避けつつ話すなら、「雲仙普賢岳的な問題」です。それにしても、あんなヒロイックに描くことなくないですか? 他にも死んでる人はいるんですから、被写体がマスコミ関係者だからってことさらそのことだけを取り出してあーだこーだいうのは、お仲間意識しか感じられませんでした。むしろあの場面は不快です。

ちなみに、静が一発ヤッた女にロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」にあこがれてこの業界に入ったと話すくだりがあります。現実では「崩れ落ちる兵士」は何十年も前からすでにヤラセの疑いが濃厚となっており、この映画にお似合いな作品だなとだけは思ってしまいました。以上です。