いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】わたしはロランス


『わたしはロランス』は、フランスの若手監督グザヴィエ・ドランによる第3作だ。あるフランスのカップルの80年代終わりから90年代末にかけての恋模様を描いている。

ハンサムな高校教師のロランスは、作家として活動しながら彼女のフレッドと順風満帆な生活を営んでいた。ところがある日、彼はフレッドに対し、意を決して重大な告白をする。実は彼は、体は男でも心は女というトランスジェンダーだったのだ。

フレッドへの告白はつまり、ロランスが社会的に女性として生きていくことの決意であり、同時にそんな自分を受け入れて引き続き交際してほしいというフレッドへの懇願でもあった。
覚悟を決めたロランスは学校に「女装」して通勤し始めるが、彼の姿は各種方面で軋轢を生み、学校もやめざるをえない状況になっていく。

一方フレッドはショックを受けつつも気丈に振る舞い、引き続きロランスとの生活を続けようとする。
けれど、彼女は女性として生きようとするロランスと社会の「常識」との間で心身ともにすり減らし、ボロボロになっていく。


本作とともにドラン監督の作品には処女作、第2作とLGBTが登場している。それは、監督自身もゲイであるという個人的なアイデンティティに関わってくることだが、それ以上にこれら3作、とくに第2作の『胸騒ぎの恋人』と本作『わたしはロランス』には、あるメッセージが通奏低音している。
それは「誰かを好きになることに、性別など関係ない」という至極まっとうな――けれど多くの人が忘れがちな――常識である。

ただ、本作がそうしたPC的なご高説を賜る単なる「お涙頂戴」もののもっと先を行くのは、フレッドの側にも言いたいことを言わせるからである。
ロランスの「女装」が社会的に嘲笑の的になっていることをフレッドだってわかっており、それを彼女は恥じている。けれど同時に、フレッドはロランスを笑おうとする社会に対しても全力で反撃しようとするのだ(レストランでのブチギレは圧巻の一言)。
フレッドは、ロランスへの愛と、彼が「男」でなくなってしまったことへの歯がゆさの間で、揺れ動くのだ。


2人は、なかなかうまくいかないけれど、それと同時にお互いがお互いを「運命の人」だと知っているがゆえに、見ていて切なくなる。その先で最終的に何があるのかは、あなたの目で確かめてもらいたい。

最後にもう一度畳み掛けるのが、2人の出会いを描くクライマックスのシーンである。あえてこのシーンを最後にもってくるのは、憎い演出だ。ダンディに誘うロランスと、それに笑顔で応じるフレッドのカットバックである。そこには否が応でも幸福な未来が漂っているけれど、約160分を駆け抜けてきた鑑賞者にとって、見つめ合う2人にそれ以上の何かを感じざるを得ないのである。