いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「ロジカルシンキング」ブログの自粛宣言で思ったこと

和歌山県で起きた小学生刺殺事件について言及した『ロジカルシンキングができない人々【論理よりも感情が優先される国】』という記事で注目を集めていた自由人さんというブロガーが、ブログを自粛してしまうらしい。
ネット社会における「言葉」の意味を考える


たしかに書かれている内容は論理的に間違っている部分があると思うし、その後の弁明も納得しがたいものがあった。
それにしても、曽野綾子氏のようにポリティカル・コレクトネス的に燃えやすい地帯(人種問題、ジェンダー問題、歴史認識問題etc)でやらかしたわけでもないのに、ここまで燃え広がることも昨今では珍しい。驚いたのは、池田信夫氏までFacebook等で取り上げていたことだ。BLOGOSへの記事提供もあって、広く拡散したようだ。もしぼくだったら、もう一生「宝くじ」とは関わりあいにならない生活がしたくなるだろう、と思った。
最新記事にも混乱が続いていて、自由人さんは徹底して今回の一件を「言葉」の問題だと主張する。要は「言葉尻」「書き方」が悪かったのだ、と弁明している。
けれど、ぼくが思うに実際はーー筆者が当初論題にあげていたーー論理の問題なのである。論理的に間違いがなければ、たとえ口汚い書き方だってここまで注目を集めなかっただろう。そして、間違いはあとからも正すことができるのだ。



文は人なりとはいうものの、やっぱり書いたものと人は違うと思う。批判されたって、書かれたものへの批判と人格否定は分けて考えるべきだ。
けれど、最新の記事からも伺えるのだが、こういうことが起こって普段では考えられないような注目を集まってしまったときに人は冷静になれない。たとえ寄せられた言葉が書いたものの内容に対しての批判であっても自分自身が傷つけられたように感じるし、批判が多く集まれば、勢い余って人柄や姿勢、資質といった書き手本人へ言及してくる人も出てくる。あまりよろしくはないが、これは仕方がない。
例えば普段自分が使うような「香ばしい」だとか「味わい深い」といった表現が、いざ言われる側になったときに結構効くのだ。ぼくだって多少経験があることだから、それはわかる。




だけどだ。なにも自粛まですることはないとも思う。

ブログを書くのもやめるのも個人の自由だが、いまは自粛してほしくないと思った。それには理由がある。
今回の騒動について、全くの赤の他人でどちらかというと野次馬に近い感覚だったが、それでも腹が立ったことが1つある。それは「このブログが閉鎖されるまで、徹底的に批判する権利が我々にはある」「今後も""趣味の範囲""で書きたいのであれば、これ以降はメディアの掲載を避けて頂けると幸いです」といった一部の批判についてだ。

文章が論理的、道義的に間違っているとして批判するのは別に構わないが、書くことそのものを奪おうとするような物言いは、他人事ながら一番腹がたった。
ぼくもつい最近書かれた。チビだとかデブだとか、短足だとか書かれるより、めちゃくちゃ腹が立った。論理だてては説明できないけれど、個人的に文章を書くのが好きで、好き勝手に書いていいブログ上で言われたが故に、カッとなったのだろうか。
そのとき、この誰かさんが死に絶えるまで、どんな駄文でも書きつづけてやろうと思ったのである。


自由人さんには言いたい、自粛なんでしなくていいと。
確率についてはもう少し勉強した方がいいとは思うが、もうこの際だ、自分が批判されている理由はわからなくてもいい。わかってても謝らなくていい。そのままいっちまえ。ただし「正直、宝くじ売り場を爆破してえ」とかいったことは書いてはだめだ。逮捕されるぞ。


ブログなんて好きなことを好きなように書けばいいのであって、誰にも自粛するいわれはないし、誰にも自粛させる権利はない。その一方で、書きたいという内発的な欲求がないならば、書かなくてもいい。それも含めて自由なのだ。
ただし繰り返すが、「書くのをやめてしまえ」という声に応じ、その権利を放棄することだけは、他人事ながらしてほしくないと思ってしまうのである。
ここまで読めばわかると思うがこれは全くの非論理的で、感情的な訴えである、あしからず。