いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

小学校の授業で無修正のIS遺体写真が使用される事案が発生

教育委員会によると、3日午後、名古屋市東区にある山吹小学校の5年生(児童35人)の授業で、20代の女性教諭が「イスラム国」に殺害された湯川さんの遺体が写った静止画像を修整することなく使用したという。

 社会科の授業の一環だったということで、他にも後藤健二さんが殺害された動画の中にあった後藤さんがひざまずている静止画像も修整なしで使われた。女性教諭は「命の大切さに目を向けたかった」などと話しているという。
小学校の授業で湯川遥菜さんの遺体写真を修整せず使用 愛知県 - ライブドアニュース


ぼくの中で、この教諭の授業が(ある意味)「世界一受けたい授業」に一躍踊り出た。
だって、この画像とこの状況をとおして「命の大切さに目を向け」させるという論理展開が、ぼくには全く思い浮かばないからだ。

もちろん、県教委による「命の大切さに目を向けたかった」という説明を真に受け、実際にそうした志のもと授業が行われていたとしたら、だが。以下、そうした仮定のもとで話を進める。


繰り返すが、今回の事件や画像を「命の大切さ」についての“教材”に使うのはどう考えても無理筋に思える。
だって、あれは「命の大切さ」になんて気にもとめていない者による画像だからだ。
人の首を切り、その姿を遠くないその人の同胞に見せつけ、あるいは生きたまま人を焼ける。このどこに「命の大切さ」が通じる余地があるのだろう。
理屈っぽい児童ならすぐに口答えするだろう。じゃあこの画像で行われていることは何なのだ、と。


もちろん、小学生への教育として「命の大切さ」を教えるのは正しい。この前提を共有しないと、「万人の万人に対する戦い」が起きかねないからだ。
けれど、その“教材”としてあの画像を使うのはおかしいということだ。


あの画像から我々が学ぶべきは、もうちょっと複雑な教訓だ。「“命は大切”だが、世界には(他人の)命を気にもとめない人たちが実在するから気を付けよう」ということだ。
われわれが空気のように馴染む価値観に取り合わない、エイリアンのような存在が世の中にはいるということだ。


でも、現状ほとんどの日本の児童たちにとって、紛争地帯を訪れることは稀だ。そうした意味で、この教訓は知るのはもっと後でだっていい。
そうなってくると、やっぱりこの画像を使ったのは事件を前にして何かスイッチが入っちゃった先生による暴走にしか思えない。


それにしても、児童たちがどんな顔をして授業を受けていたのかが気になる。意外と「もうそれみたー」とか得意気に語る子もいたりするのだろうか?