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85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】身体/生命 (思考のフロンティア)

身体/生命 (思考のフロンティア)

身体/生命 (思考のフロンティア)

岩波書店の「思考のフロンティア」シリーズの「身体/生命」。著者も予め断っているが、西洋哲学の身体論の中でも本書がクローズアップするのは、フランス現代思想の大家ミシェル・フーコーの「生−権力」と、彼の議論の射程にある近代医療哲学だ。


著者はまず、出版された2000年前後に大きく盛り上がった脳死論争において、生と死の連続性を主張する日本の反−脳死論者たちが「逆オリエンタリズム」(非西洋優越主義)に陥っていると指摘することから、議論を出発させる。反−脳死論者の論拠の背景には、西洋がデカルトを代表とする(精神を優位とする)心身二元論を(いまだに)信奉しているという思い込みがある、というのだ。

そこを皮切りに、『監獄の誕生』で指摘する「政治的身体」や近代以降にはじまるという「生−権力」、『臨床医学の誕生』でとりあげたビシャの「有機的生命」と「動物的生命」からなる身体論を下敷きに、西洋で身体/生命がどのように語られてきたかを外観していく。


本書によると、日本の反−脳死論者たちは二つの意味で錯誤を犯していたことになる。
一つは、西洋は何も生と死の連続性を否定したわけではない、ということ。18世紀後半にはすでに、死亡前に埋葬されるという事故が頻発したことを背景に、西洋近代医療の現場で生と死の連続性のどこに境界を置くか、ということが議論になっていたというのだ。
そしてもう一つは、精神優位を説くデカルト哲学に反し、当時の医療現場ではすでに、心臓や肺によって支えられる「有機的生命」が、脳によって支えられる「動物的生命」に優越していた、ということだ。ここで興味深いのは、ビシャの身体論における「有機的生命」の「動物的生命」への優越性が、ほぼ同時代のルソーによる国王(=頭)ではなく「一般意志」を基礎とした国家観と、相似の関係にあるという指摘だ。


おそらく(ぼくをふくめ)多くの日本人が陥っているのは、脳死を認める西洋では精神の価値が身体を優越している、という錯誤だ。そうでない証拠に、著者はイギリスで脳幹死説(脳幹の死を人の死とする説)が支持されたことの背景に、大脳等がつかさどる精神活動よりも脳幹に支えられた基本的な生命維持活動の方が重要だとする考え方があるからだ、と指摘する
つまり、西洋では現代でもやはり、ビシャに始まる「有機的生命」の「動物的生命」に対する優位性が維持されている、というのだ。


著者は終盤、「生−権力」に対するフーコーのスタンスそのものも、批判的に検討していく。「生−権力」への対抗手段として彼が支持した安楽死尊厳死も、ナチスが公開した「私は訴える」という映画をもとに、それが諸刃の刃であることを指摘する。ここには、「死ぬという自己決定」のジレンマがあるんだろうなーと思った。
巻末では基本文献案内も記載。これだけの内容を120ページあまりに凝縮しているため、けっこう歯ごたえはあるが、フーコーの『監獄の誕生』『臨床医学の誕生』を読み解く上でのガイドになるとともに、フーコー自体を超えていく上で有用な一冊といえるだろう。