いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】満たされない自己愛―現代人の心理と対人葛藤/大渕憲一

満たされない自己愛―現代人の心理と対人葛藤 (ちくま新書)

満たされない自己愛―現代人の心理と対人葛藤 (ちくま新書)

TwitterFacebookで自意識ダダ漏れとなる現代ほど、「承認欲求」が取りざたされる時代もなかなかないだろう。そしてその欲は、「自己愛」とも言い換えることができる。今やぼくらは、人々は自身の自己愛のみならず、ネットを介して他者の自己愛とも向き合わざるを得ないのである。
本書はそんな「自己愛」について、その曖昧な意味の再定義から出発し、精神分析学者フロイトコフートの理論を援用しながら解説していく新書だ。

一次的ナルシシズムから二次的ナルシシズムへの移行など、いわゆる「お勉強」になる本であるのは間違いないが、それ以上に「自己愛」というテーマの持つ今日的な側面から、もっと実感をともなって読むことのできる一冊だ。
たとえば、多くの人の心を絨毯爆撃しそうな次の一文。

 自己愛者の中には、積極的に行動しない代わりに、満たされない自己愛に対して、もっぱら歪んだ認知によって消極的に対処しようとする人たちもいる。誇大的自己愛が満たされないことが理由であることを本人も気づかないままに、彼らは現在の自分の生活に漠然とした不安を持ち続け、また、身近な人々に対して反発や恨みを抱く。彼らの多くは、他人のあら探しをし、人の不幸やトラブルを声高に語るが、これは人を貶めることによって満たされない自己愛を癒やそうとするものである。そうした隠れた自己愛心理の持ち主の場合、彼らの人間関係は自己愛によって歪められた認知と感情によって飾られている。

p.72

もうやめて! 読者のHPはゼロよ! 初版は2003年だが、10年以上たったいまでもなおその言葉はビビットに響いてくる。
本書の中で、とくに重要なキーワードになるのが「自益的認知」だ。要は現実で起きたことを自分に都合のいいように解釈するという自己愛の一側面だが、これは養老孟司氏がいう「バカの壁」にも通じる。あることが「わからない人」は、「わかることができない」のでなくて、本当は積極的に「わかりたくない」のだ。こういう光景は、ネットでよく見かけるのではないだろうか。
自益的認知は健全な成長を阻むこともある。あることでの自分の実力のなさを認めて向上を目指すより、自尊心を守りたいがために、あれやこれやと言い訳をして現実の「見え方」をゆがめてしまう。誰しもが一度やニ度は経験があることだろう。


もちろん、最低限の自己愛は必要だし、それがなさすぎる人も「自分の考えというものがなく、意志が弱く、他の人に同調するだけ」(p.113)とやり玉に上がっている。要するに、自己愛がありすぎる人も、なさすぎる人も、ある程度は問題があるということだ。


おもしろいのは、そんな自己愛者の自尊心は実は動揺しやすい「砂上の楼閣」で、他者に依存しているということだ。例えばそれは「ゼロサム・ゲーム」のようだと、著者は指摘する。

その場にいる他の人のプライドが高められてしまえば、自分のプライドはその分下がらざるを得ないと感じる。逆に言うと、自分のプライドを高める積極的な材料がなくても、他の人のプライドを引き下げるのに成功すれば、相対的に自分のプライドを引き上げることができる。自己愛者は典型的に、自尊心についてそうした見方をする。

pp.139-140

なんて陰湿で、倒錯的なんだと思う反面、ちょっと理解できてしまうところもあるのではないか。


こうした自己愛が完全に満たされることはないと、著者は予めタイトルで明かしている。
なぜなら、自己愛者は評価されるように周囲に自身で仕向けたことに知っており、また「自分が評価されている」という認知自体が捏造された主観であることに気づいている。さらに、いくら評価されても本当のところ、他人にどう思われているかはわからないからだ。
ここまで読むとわかるが、めんどくせーやつなのである、自己愛ってーのは。


著者は自己愛を、一見水と油のようにみえる社会活動へと接続する可能性について末尾で考察している。
別に大それたことでなくても、これはできるとぼくは思う。
たとえば、ぼくが世界一サッカーがうまいと認めるナルシストは、クリスティアーノ・ロナウドである。でも、彼がナルシストだと批判されることは、一部のアンチをのぞけばまずない。彼には結果がともなっているからだ。
以前、別のブログで書いたがトップアスリートの中には強固な自己愛・自己像(俺ってつええええ)を維持しながら、実力をあげていくというタイプもいるわけで、「自己愛が満たされないからこそ頑張れる」という側面もきっとあるはずなのだ。