いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 70点

雪の降る冬の夜、老年の紳士セリグマンは路地裏で打ち捨てられた中年の女・ジョーを助ける。自宅で治療してやったところ、ジョーはおもむろに、⚫︎ックスに生きたその半生を語り始めた。


全編にわたって過激な性描写が溢れていて(ただ日本ではボカシが入る)、しかもそのバリエーションは豊富だ。幼少期の床トゥルーンなど、日本の子役では撮れないかもしれない。
二部作となっているが両者には特色があり、Vol.1ではセ⚫︎クスを深く探っていくのに対し、Vol.2では分野横断的にセクシャルな行為を体験していく。前者が垂直下に掘り下げていく運動なら、後者は横へ横へ広がっている運動といえる。
そうした彼女の語りに、読書家で物知りのセリグマンは険しい目をしたりしない。それどころか知的欲求をかきたてられ、さまざまなたとえ話で彼女の性描写を解釈しようとする。このあたり、「え、これ笑っていいところなのかな?」という微妙なユーモアが漂っている。



ジョーはなぜ、そこまで性に耽溺するのか。本作はその理由を明示しないのだが、実は明示しないことそのものがメッセージになっている。
彼女は幼い頃に「天啓」を受けた体験を語るが、個々人の性的倒錯のありようはまさに天啓のようなもので、当人に選ぶ余地はない。どれだけ脚フェチになりたくても脚フェチにないならなれない。脚フェチはなるものでまなく、そう生まれるものなのだ。
だから当事者には、自身の性的倒錯を受け入れるか、それともひた隠しにするか2択しか与えられない
ジョーはというと、ニンフォマニアとしての自身の生き方を肯定的に受け入れるその仕方において、勇ましく、そして美しい。それは彼女が荒涼とした崖の淵に見つけた、孤高の樹木のように。



ちゃぶ台返しのようなクライマックスは、どう見ればいいのだろう。
ぼくはこのクライマックス、そして映画全体に、「語る主体」と「(性)行為する主体」の分裂を見た。現在のシーンと過去のシーンのどちらにも出ているジョーが顕著なのだが、よくよく見れば<過去のジョー>が言葉少なにただただ性をむさぼるのに対し、<現在のジョー>はセリグマンとのダイアローグで驚くほど多弁だ。
ジョーの姿が物語るように、映画は現在のシーンでのセリグマンと彼女のダイアローグが、寡黙な過去のシーンにかぶさる。
つまりそれは「語る主体」と「(性)行為する主体」の分裂に他ならない。

セリグマンの愚行と彼の辿る末路は、「結局は男なんで皆同じ」ということではなく、この「語る主体」と「(性)行為の主体」の相互不可侵性なのだととらえるべきなのではないだろうか。