いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

声というメディア/身体についての一考察「her/世界でひとつの彼女」


先月、チューリングテストで史上初の合格者が出たと報じられ、直後にその合格に識者から疑問符がつけられたが、人工知能はいまだわれわれ人類の胸をときめかす題材である。本作『her』は、人工知能を持ったしゃべるOSサマンサ(スカーレット・ヨハンソン)と、鬱屈した毎日を送っていた男セオドア(ホアキン・フェニックス)の交流を描くSF恋愛映画。

最愛の女性を喪失したセオドアの世界は灰色だ。ストーリーはところどころ、ルーニー・マーラが演じる妻との瑞々しい日々が差し込まれるのだが、以前語った「過去形の幸せ」がパンパンに詰まっている。だからこそ彼女を失った彼の気持ちが、痛いほどわかる。失恋直後の鑑賞者にはちょっと強烈すぎる劇薬だ。

今作は未来描写も印象的だ。全体的なトーンが暖色で、ポカポカしてきそうなその未来観は、たとえば『エリジウム』『TIME』などの殺伐としたそれとは一線を画し、見ていてほのぼのする。なぜか音声情報中心のユーザーインタフェースもユニークだ。


いまさらAIとの恋愛なんて陳腐だ、というような感想も聞こえてきそうなだが、ぼくはこの映画、メディアと恋、そして声についての話だと受け取った。
われわれは、たとえメディアを介してしか知らない相手でも親密になれることを経験的に知っている。たとえ生身の相手と一度も会ったことがなかったとしても、親近感が湧くし、ときには性的対象としてみなすこともできる。
しかもそうした感情は、ときにメディアの先に相手がいるという事実を必要としなくなる瞬間がある。「相手が二次元から出てこない」と嘆くアニオタがいるように、たとえ相手が「不在」であったとしても、そしてそれを十二分に理解していても成立してしまう。ロミオとジュリエットもビックリの悲劇性が、そこにはある。本作も根底には「予め叶わないことが確定している恋」という悲劇性を帯びている。性的に愛玩できるアンドロイド(セクサロイド)の方が、まだましかもしれない。
慕情が募れば募るほど、「会いたい」という気持ちが強くなる。しかし会えない。この隘路を2人はどう克服するのか。超絶な計算速度をもつOS、サマンサが算出した「解決案」は、奇天烈であり、すこしグロテスクだ。詳しくは、劇場で鑑賞してもらいたい。


メディアといえば、この映画で重要な意味をもつ「声」だってメディアといえるかもしれない。サマンサを演じるスカーレット・ヨハンソンは、今をときめくトップスターで生身の彼女が美しいことがわかりきっている。
けれど、本作で気付かされるのは、語尾が少しかすれ気味になる彼女の声も一級品だということ。ときに軽口を叩き、ときに優しく接してくれる彼女に、セオドアは次第に惹かれていくことになる。

声はしかし、単なるメディアとは言い切れない独特の身体性を帯びている。声色は骨格によって規定されており、誰もが同じ声で話すわけではない。それに加えて、話し言葉にはその人独特の言い回しやイントーション、息遣いがあり、それは話し手固有の歴史といえる。セオドアにとって「世界でひとつの彼女」とは、まさしく「声」によって規定される。声の唯一性は、恋慕(他の誰でもなくあなたが好き)の担保となりうるのだ。
もちろん、サマンサはAIで、できの悪い人間の聴力が人の声ととらえるだけで、いくらでも量産、調整が可能な被造物であるのだが……。


メディアであるとともに身体でもあるーーそんな独特の声の在り方について考えさせられる一作だった。