いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「無敵の人」加藤智大の実弟の自死が意味するもの

週刊現代が、2008年に秋葉原で起きた無差別殺傷事件の容疑者、加藤智大の実弟が自殺したと報じている。
『秋葉原事件』加藤智大の弟、自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」 : J-CASTテレビウォッチ
被害者遺族と加害者家族 〜秋葉原事件犯人の弟の自殺に思う〜 の巻 - 雨宮処凛

なんともやりきれないのは、一度は認められた女性との交際が、結婚の段になって相手方の両親の猛反発によって破談になったことだ。
犯罪加害者の家族だからといって差別するのはよくない――そうした「政治的に正しいこと」が言えるのは、実はまだそれが「他人事」の段階にすぎないからかもしれない。問題は、実際にそれが自分の身に起きたときだ。いまだ日本では結婚が「家と家の結びつき」であるとの考え方が根強い。世間を震撼させた重大事件の加害者の弟を、自分の家族の一員に招き入れることは、結果的に自分たちをと危険に巻き込むことになるのではないか――本当のところはわからないけれど、彼らが反発した背景には、そうした苦渋の決断があったのかもしれない。

この出来事は、「無敵の人」と切っても切り離せない話題だ。
「無敵の人」はひろゆきによる造語で、最近また「黒バス」脅迫事件の犯人をめぐり話題になっていた。低収入で、人の縁にも恵まれず、社会的な地位も高くないため、罪を犯したとしてもこれ以上落ちようがない(=無敵)人を意味する。
非婚化、低収入層の拡大、雇用の流動化、血縁コミュニティの形骸化などで、そうした「無敵の人」が今後増えるのでないか、ともささやかれている。

ひろゆきの記事の投稿時期からして、ここでいう「無敵の人」は、加藤智大を指している可能性が高い。けれど実弟自死をとげたことでわかったのは、加藤が「無敵の人」ではなかった、ということだ。いや、正確には、影響を被る家族がいる「無敵の人」でないはずの人間でも、彼(女)の頭の中で家族の存在が希薄化すれば、「無敵化」される、ということだ。面会を求める弟からの50通以上にのぼる手紙を、加藤は一切無視し続けたという。
天涯孤独でないかぎり、「無敵の人」にも家族はいる。至極当たり前のことながら「無敵の人」は無敵だと思っても、その家族まで無敵とは限らない。ほとんどは、社会の中に根を張る一市民だろう。「無敵の人」の意識はどうであれ、家族は彼(女)と否が応もなく紐付けられ、好奇の視線にさらされてしまう。ネットがある今の時代、追跡しようと思えば簡単にできてしまう。


もしも今後、「無敵の人」による犯罪が増えるとしたら、それは「無敵でない加害者家族」が苦しむ機会が増える、ということと同義なのかもしれない。