いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】真夏の方程式

自然豊かな海辺の集落で起きた元刑事の死亡事件と、その背景に隠された3人家族のひた隠しにしてきた謎に、偶然そこを訪れていた(←お約束)帝都大教授、湯川学が挑む。


ドラマ「ガリレオ」シリーズと異なり、映画の前作「容疑者Xの献身」は事件として地味で、むしろ人情ものといった風情だった。
今作「真夏の方程式」もそれを狙っているのか、人情ものというイメージが強く、またテーマも似ている。いわばこれは「自己犠牲」の物語なのである。

なんといっても、これは「白竜のための映画」である。ヤクザ映画常連の彼がこの映画でみせる、ひと味違った演技がグッとくる。彼が回想シーンで登場する1時間30分ごろまでは、壮大なフリである。2時間強の時間それだけを楽しみにみてもらってもいいぐらいだ。

ただ、それでも2、3個は気になる点があって、特にこの作品の発端となる約15年前の殺人については、どうしても飲み込みがたいところがある。
要は、「殺す側」にもやむにやまれぬ事情があったというストーリーなのだけれど、結局持ってその「殺す側」の理を正当化しようとすればするほど、「殺される側」をよっぽど鬼畜におとしめなければならないジレンマがあるのだ。
今作におけるその「殺される側」は、鬼畜というよりもはやマ×キチレベルにまでなってしまっている。人様の家に勝手にあがりこむのは、不法侵入だしね。
しかもそれでも、「殺される側」と初対面の「殺す側」が殺すのは納得しがたく、「殺される側」も頭おかしければ、やっぱり「殺す側」もキレやすいヤバい奴にしか見えなくなっている。ここに無理があるのだ。
同様のことは冒頭の電車のシーンにもいえて、少年が携帯電話を使って隣の席のジイサンに怒られるのだが、そのジイサン、あげくの果てに携帯の取り合いで少年とちょっとした揉み合いを演じるのである。その際に携帯が湯川のもとに転がていき、彼が登場するのだが、このシーンはこの映画全体の縮図になっている。つまり、ある要請のもと常識的に見てありえない登場人物が生み出され、結果として違和感が残ってしまうのである。

ぶっちゃけるとこれは大沢樹生」的な話なのだけれど、その当事者である「喜多嶋舞」的な存在が、責められなさすぎというのも、気になる。全ての発端はそこのはずなのに、どうもこの映画はスルーぎみでそこを流すのである。「起きた事はしかたない」という考え方なのだろうか?


細かい事を挙げたらキリがなくて、被害者に奪われていった写真立てを取り返す描写がないのは弱いし、「似てないってよ」とボヤく件は、父親は真相を知らないと娘が思い込んでいるとするなら、むしろなくてよいだろう。また、湯川と少年がペットボトルロケットで戯れるシーンは、本件と関係がなさすぎる。2人の交流を描きたいのだなということが露骨に見え過ぎて、鼻白むだけである。まあ、ここらへんは観ていない人はさっぱりかもしれない。


しかしそれでも、前作『容疑者X』のある「献身」の陰でものすごい人命軽視が行われているのに比べれば、はるかにましである。
それに何度もいうが、これは白竜を楽しむ為の映画である。こういうキャスティングで必要以上によい人にみえるから、強面というのは本当に得だと思う。