いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

超変態フォームから放たれたど真ん中ストレートだった古谷実「サルチネス」

サルチネス(3) (ヤンマガKCスペシャル)

サルチネス(3) (ヤンマガKCスペシャル)

不覚にも3巻を買い忘れ、3・4巻を同時に読了。
この結末のあまりのベタさに、旧来のファンはとまどうんじゃないだろうか

グリーンヒル」という過渡期を越え、「シガテラ」以降の古谷といえば、「よくわからない」のが定番だった。
一応、通奏低音する「敵」はいた。それは漠然としていて、なおかつ強大な「人生」そのものである。実存的な不安とでもいいかえれようが、それは知的生命体として地上に生れ落ちてしまった人間ならではの、途方もない悩みなわけだ。これは、少年誌はおろか青年誌でさえも「それ問題?」と一蹴されかねない、繊細な悩みだ。

ではその「人生(日常といいかえてもいい)という漠然とした敵」が、作中で具体的な何かに結晶化されるというのかというと、そういうわけでもない。表層的にはこの主題となんら関わりのないような奇妙奇天烈な事件が起こるのだ。しかも、作品自体が尻切れトンボに終わることもある。

これを「理解」するのは難しいけれど、「なんだかおもしろい」と思ってしまう人がいて、つまりそれがぼくで、ネットでは散々「古谷、もうその展開いいよ」という空気ができているが、それでもぼくはたまらないのだ。この感じが。


それを踏まえた上でいうと、今作「サルチネス」に関しては前回書いたように、主人公・中丸に「妹を幸せにする(ために自立する)」という強大な目的意識があった。これがデカい。

もちろん「妹を幸せにする」までの間、紆余曲折、寄り道があるわけで、その寄り道の仕方においてやはり古谷実は健在。そして、この人のギャグセンス、会話のノリの心地よさったらない。

それが最終的に、びっくりするぐらい、きれいな大団円を迎えてしまう。一言でいうなら「ええ話」なのだ。
ピッチングで例えるなら、この作品は超変態フォームから放たれたど真ん中ストレートだ。そりゃもちろん、トルネードの野茂英雄など変態投法から豪速球を投げる投手もいたが、古谷の場合はこれまで、超変態フォームから投げた球が途中で消えたり、あるいは投げたのがバックスクリーンの方向だったりで、とにかく捕手のミットに収まることがまれだった。それを面白がるファンもアレだが。

最終巻帯には、もうすこし続けてもよかったかも、などと珍しく著者がコメントを残していて、今回ベタをやったことについて、若干恥ずかしかったのかもしれない。いつもの古谷の片鱗(=変態フォーム)から、それでもキャッチャーの構えたミットにど真ん中にストレートをばしっと投げ込んだ。それだけに、あらためて今作は古谷ビギナーにお勧めしたい。


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