いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

オリジナルとパロディの境界線があいまいになるとき

数日前にフジテレビの現社長の亀山千広に関するこういう記事を読んだ。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/television/678682/

それまでのトレンディドラマと一線を化し、「あすなろ白書」以降プロデュース作品では「好きだ」というセリフを使わなかったことや、「企画作りでは消去法の方がいい。ハードルを設けることで、意外とうまくいく」といったものを作る人にとって汎用性の高いメッセージなど、のちに「世界の亀山モデル」を輩出していく御大とは思えない優れた内容で非常に面白かったのだが、ぼくの興味はそこにはない。


記事に貼られた当時の亀谷氏の写真である。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/television/678682/slideshow/599966/

真っ青なダンガリーのシャツに、肩から羽織るセーター。ベッタベタな、今やコントでしかお目にかかれないようなプロデューサーっぽい姿で写る氏である。率直に言ってダサい。


問題は、この写真が平成10年に撮影されたものだということだ。98年である。98年だとしても、この格好は少々ダサすぎはしないだろうか。さらに、亀山氏のこの表情も気にかかる。どこかおどけて、どこか人を食ったような笑顔ではないだろうか。


ということで、ぼくはこの写真の氏の格好は、もしかして「プロデューサーらしいプロデューサーのパロディ」を演じているんじゃないかという気がしてきたのである。トリミングした画像はおそらく雑誌か何かのインタビューで使われたものだろう。そんなところに真面目な姿で出てどうする。「楽しくなければテレビじゃない」のあのフジテレビの敏腕プロデューサー(当時)なら、そう考えてもおかしくない。


もちろん、亀山氏が素でこの格好をしている可能性も捨てきれない。けれども本当のところ、素なのかネタでやっているのかは、この際重要ではない。
この写真から気づいたのは、後世の人からすれば、素なのかパロディを狙っているのか、それがあいまいなるということである。どんなパロディにも、後世の人間にパロディとして受け取ってもらえない(ベタに受け取られる)危険性があるんじゃないか、ということだ。


例えば、30日からいよいよ日本で公開される『マン・オブ・スティール』は、スーパーマン久々の映画化である。

06年にも実は映画化されているが、ぼくが子供だった90年代には、バットマンこそティム・バートン版で認知されていたが、スーパーマンはどこか影が薄く、むしろ『Dr.スランプ』に登場する彼のパロディのスッパマンの方が印象が強いという状況だった。実際、スーパーマンを知らずにスッパマンは知っているという子供も大勢いただろう。

そう、時とともにオリジナルはオリジナルとしての権威をはく奪され、パロディがパロディという分相応を超え、オリジナルと拮抗する、さらには凌駕することさえある。


さらにいえば、優れたパロディほど、後世からはベタに受け取られる可能性が高いということさえあるかもしれない。というのも、優れたパロディというのは、同時代を皮膚感覚で知っているものでなければ絵解きできない代物であることも少なくないからだ。
優れたものほど、後世には正しく伝わらない。これほどまでに皮肉な話もないだろう。