いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「本気」に「感動」して支持してしまう有権者たち

山本太郎が、国会にやってくるぅ〜(ナレーション 下條アトム
山本太郎氏当選に沸くネット『今年一番のギャグだ』|面白ニュース 秒刊SUNDAY
ということで、山本太郎が当選してしまいましたが。


まさかまさかで、緑の党から立候補し、選挙フェスなど独特の方法で選挙活動をしていた三宅洋平氏も健闘していて、比例で出馬した同党の候補者の中でもダントツの17万得票というのはけっこう衝撃的なわけです。渋谷あたりをよく行く人は、選挙期間中に「ギロチンにかけたいわけじゃない!」と叫んでいた人といえばわかると思います。そうですあの人です。


共闘している山本氏と三宅氏ですが、共通点はあのスピーチにあると思う。


各種コメント欄をみていても、彼らはスピーチの評判がいいようです。
けれど、それは単にスピーチが上手いということではなく、彼らがあたかも心から、「本気」で訴えているように見えるところにあるのでしょう。
いえ、たぶん「本気」なんでしょう。正確には、「本気を伝える技術」に非常に長けているわけです。俳優である山本太郎が上手いことはもちろんですが、三宅洋平のあのライブMCのような訴えかけは、とくに若者には「本気」っぽくみえるわけです。スピーチが下手で、心がこもっていないように見えてしまう他の候補者と彼ら2人が並び立てば、「本気」っぽさがなおさら際立ちます。

彼らのような「本気で訴えかける」候補が人気を博すというところに、ぼくは、現代に「自分の気持ち至上主義」が勃興しつつあるとみたオタキングこと岡田斗司夫の炯眼を見ないわけにはいきません。
自分の書評からの引用ですが。

情報社会の現代では、この世界にはたくさんの人がいて自分はその中のちっぽけな一個人にすぎないんだということに、誰もが嫌でも気づかされる。
(中略)
そしてそのことによってかえって唯一無二の自分の個性を、気持ちを大切にしようという「自分の気持ち至上主義」が立ちあがってくる、というのだ。これは自分の気持ちに現実を妥協しないということであり、ひと言で言ってしまえば、みんなわがままになってしまったってことを意味する。

http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20120519/1337355450

「自分の気持ち至上主義」がもてはやされると考えれば、「本気」っぽく訴えかけることに長けた彼らが支持をあつめるのは、非常にわかりやすい。


もっとも、「本気」で語ることそのものは悪いことではない。けれど、「本気」で語っていることが「真実」であるともかぎらないわけです。
けれど、そうしたスピーチでの「本気」っぽさが、それを聞く人の「感動」を呼び、そしてその「感動」がそのままその候補への信任へと直結してしまう。これは危険ですよね。

候補者の演説を聴いてその人に感動するのに何が悪いのかという話ですが、よくよく聞いてみればわかりますが、彼らのスピーチには内容がないのです。これが一番の問題なわけです。

その証拠に、彼らのスピーチについて書かれた感想を読んでみてください。「感動した!」などのコメントはあれど、政策的な観点からの言及はほとんどない。


ぼくが何を問題視しているかというと、ここには「人」しか出てこないのです。どこまでいっても「人」「人」「人」。そこには「人」とその人の「本気度」という物差ししかないのです。
選挙というのはあくまで「人」を選ぶ制度ですが、「人物本位」であっていいのかというと、それはちがいますよね。あくまでも政策で選ぶべきなのです。
なぜなら、人は間違うことがあるからです。「人」とその「本気度」で選ぶ限り、その人が放射能被害についてどんなに間違った情報を流しつづけても、急進的な政治団体がバックについていても、免罪されてしまう。「本気の人」ならば何をしてもいいことになってしまうのです。

「タレント候補」がなぜ害悪なのかというと、それは必然的に知名度という「人物本位」の投票になるからです。
その点、山本太郎はタレントをやめようが既存のテレビメディアから足を洗おうが、人物本位の投票によって国会に送られたという点では、タレント候補がはらむ問題と選ぶところはない。


三宅氏は21日の落選後に「既存政党に対抗できる政治勢力ができた」と述べていたそうですが、ぼくには三宅氏がハーメルンの笛吹き男で、その「政治勢力」が笛吹き男に連れて行かれる子供達にしか見えないのですが、いかがでしょうか。


と、このように今回も狂乱と苦笑いと、大きな失望とともに幕を閉じた参院選
毎度のことながら民主主義は日本人には早すぎる制度だと痛感させられましたが、当分のところこの制度と付き合っていくしかなさそうです。