いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

"ヤッピー"や"メトロセクシャル"を知るための格好のサンプル『アメリカン・サイコ』 ※ネタバレ

バットマンクリスティアン・ベールが殺人鬼を演じた『アメリカン・サイコ』は、凄惨な殺人描写よりもまず、アメリカの都会に住む「ワスプ」や「ヤッピー」、あるいは「メトロセクシャル」を知る上で格好のサンプルになっているといえる。
ベールが演じるパトリック・ベイルマンはハーバード大卒で、ニューヨークの証券マン。洗練された部屋、洗練された暮らしを送る。そのライフスタイルはかっこよく、また清潔感があるものの、ナルシスティックですこし嫌みったらしい。
周囲には彼と同じような洗練された同性の同僚らがいる。彼らは見栄を張りあい、交わされる会話では露骨な女性差別も隠さない。典型的なホモソーシャルである。ただ御多分にもれず、彼らのホモソーシャルはホモ"セクシャル"に反転する危うさを秘めていて、そのことも映画は描いている。

洗練されている一方で息苦しくもあるこの昼の生活に耐えかねたベイルマンは、夜な夜な街で殺人に及ぶ。

バットマンことブルース・ウェインがヤッピーの良いところだけを思いっきり肥大化させた人物だとすれば、このパトリック・ベイルマンはヤッピーの悪いところだけを思いっきり肥大化させた人物と言えよう。まず人殺ししてるし。


次第に殺人衝動を抑えきれなくなるベイルマンの凶行はどんどんとエスカレートしていく。そしてついにこらえ切れなくなった彼は、大量虐殺に及んだあと知り合いの弁護士に自らの犯行を洗いざらい自白してしまう。

しかしそのあと、思わぬ展開が待ち受けている。彼が殺したはずの同僚がひょっこり出てきて彼の前に姿を現すのだ。ここで、観客はそれまでみせられてきた映像に、疑いを持つようになる。はたして描かれた光景は、現実なのか、夢か幻か。


このクライマックスの展開はきわめて両義的で、納得がいかない人もいるだろうが、少なくともぼくにはすんなり受けれることができた。
映画の冒頭からベイルマンと同僚らの談笑が幾度となく映されているが、実際そこで交わされる会話は表層的で、心からわかりあっている者同士ではないことがわかる。かつて評論家の中島梓がそれを「コミュニケーションと言う名のディスコミュニケーション」と呼んだ。
彼らがお互い、胸の内にある汚い本心までを明かすことはない。なぜならそれは、洗練されていないことだからだ。


ベイルマンによる殺人の自白は、彼が周囲の人間と真の意味でわかりあうための「最終手段」だったといえる。自分がシリアルキラーであると知ってもらうことが唯一の分かり合える手段だったということこそが、この映画で描かれる最大にして最狂の倒錯である。
しかし、その望みははかなくも絶たれてしまった。同僚とわかりあうどころの騒ぎではない。観客がそれまでのシーンを信じられなくなったのと同じように、彼も彼自身が信じられなくなったのだ。


周りの人はおろか、自分自身さえも「赤の他人」だった。地球に一人だけ取り残されたような、絶対的な孤独を知った彼のラストカットの目は、達観していた。