いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

グループ化していく社会

現代は、人類史が始まって以来人の噂話がもっともしやすい時代なのではないだろうか。ここでいう噂話とは、話題になっている当人がいない現場で行われる話の総称だ。


その理由としては、第一にネットの普及が大きい。
同級生を中傷する学校裏サイトが問題になったところに、その萌芽はあった。それ以前にも噂話は行われていたはずだが、場所を選ばずに会話できるという点においては、おそらくネット上より優れているものはない。
しかもサイト上での匿名の活動ならば、自分を特定されるリスクが軽減する。面と向かって噂話をすれば、その噂話をする姿が他人から見られる危険がある。もし他人に見つかり、「AさんとBさんがヒソヒソ話をしていた」という「噂」が回ること自体、内容が聞かれていなくても都合が悪いのである。
さらに、ネットは物理的な制約がない。無限だ。もし大人に見つかって閉鎖となっても、また別の場所に同じものを開設すればいいわけで、理論的にはいたちごっこになるはずだ。


こうした「噂話がしやすい土壌」は、ネットの普及そのものに含まれていたものだけれど、近年それをさらに加速させたものがある。
それはツイッタースカイプ、ラインなどの、コミュニケーションツールだ。
通話やチャットができるということは、さして重要ではない。
重要なのは、これらのツールでは「囲い」が簡単に作れるということだ。しかもそのグループは、グループ外の人間には存在することすら知られる心配がない。学校裏サイトの仕組みとは根本的にちがう。


その上、このグループ化には制約がない。
ここで、現実にある集団について考えたい。
たとえば、Aというグループがあったとする。しかし、実はそのAの内部には、Bというグループが存在する可能性だってあるわけだ。
また、Aという集団の内部に対立するBとCという小集団ができる可能性も考えられる。その上、Bの集団に属しながら、実はCにも属していた、という人がでてくる。
きりがないからこのへんでやめておこう。
とにかく、これらのツールでは理論上、グループを縦横無尽に作成することができる。しかも誰がどのグループに入っているかは、本人とそのグループ内の人間にしかわからない。このような状況になってくると、自分のことをどこでだれが噂しているのかは、もはや完全に把握することは不可能になってくる。


ここまであたかも「噂話をするためにグループができる」みたいな言い方で書いてきたが、事態は全く逆かもしれない。マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉が示すように、ほんとうはグループ化という囲いができたあとに、噂話が生まれていく可能性だってある。
どんな集団でもいえることだが、もっとも盛り上がる話題とは、得てしてそのグループの参加者の共通の知人だったりする。グループ化が起きた後、結果的にそこで行われる会話が噂話になることは当然ある。グループ化が、噂話を増殖、促進していっている可能性は大いにあるのだ。


もっとも、ぼくはここでこれらのツールが諸悪の根源であるということがいいたいのではない。「時代はそうなっている」という状況を価値中立的に書いただけで、これらのツールからぼくらが恩恵を受けている側面も否定できない。


ただそうはいっても、自分のことが自分の知らないところで話題になるのは、たとえそれが好意的なものであろうと嫌だという人もいるかもしれない。
では、このような時代にどのような処方箋が出せるだろう。


一つ言えるのは、「知らぬが仏」である。
ぼくはこれを、「戦略的認知主義」と呼んでいる。つまり、自分が認知しない言葉はこの世界に「存在しない」と思い込むことだ。
これについては、Twitterなどでの「空中りプ」と言われる所作にも言える。一時期まではぼくも、自分に対して行われていると思われるツイートに対してリプライを返していたが、いつしかそれはアホらしい行為のように思えてきた。そもそも、自分宛であるかも定かでない言及を、自分宛だと思い込むのが自意識過剰である。
リプライでない以上、これは自分のことではないと勝手に決めつけて読み流す方がいくらか精神衛生上心地よい。
これは、上記のグループチャットについても含めて言える。
たとえば、現実社会であなたと険悪な関係の人がいたとする。たぶんその人は、ネットで匿名であなたのことを悪く言っているだろう。けれど、あなたが知らない以上それは「存在しない」のである。


これが「気休め」にすぎないことはわかっている。けれど、そのような「気休め」でも心に備えれば、あなたの限られた時間をもっと有意義な活動に使えると思うのだが、どうだろうか?