いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

お前が芸術だと思うんならそうなんだろう。お前の中ではな

今月のはじめ、著名な台湾人(これは自分でも謎のミス。本当はシンガポール出身)の写真家がわいせつ図画頒布容疑で逮捕された。ギャラリーで男性器の写った写真集を販売したためだ。

この件で、彼と関わりを持っていたアーティストらが盛んに彼を擁護していることも、副次的に話題になっている。
全文表示 | わいせつ図画頒布で逮捕の写真家レスリー・キー 浜崎あゆみ、丸山敬太ら有名人が続々擁護コメント : J-CASTニュース
ぼくが彼らを眺めていて問題だと思ったのは、彼らが作品ではなく「人」を基準に擁護しているということだ。


第一、彼らは今回問題となった写真を確認したのだろうか。
ぼくもあまり気は進まなかったが、見てみた。
いやー、それはそれは立派なもんでしたよ。ダビデさんも真っ青。ほぼ直立不動でした。


もしまったく同じ写真を、赤の他人が売って捕まったとしたら、彼らはこの写真家と同じように擁護に回ってあげるのだろうか。ぼくはその可能性は限りなく低いと思う。
この人が書いたものは何が何でも芸術だ、と決めつけてしまう発想はすごく怖いと思う。そんな人たちは、裸の王様のおとぎ話を笑えないだろう。


けれどその一方で、この写真家が撮ったかの写真群を、「芸術ではない」と否定することもぼくにはできない。それは、エラそうに人の写真の「芸術性」を判断する能力がぼくにないということもあるが、それ以上に、そんなことを他人が決めることではないからだ。


そう、ここでいいたいのは、芸術と犯罪というのははたして両立し得ないのか、ということだ。
わかりやすくいえば、芸術にだって免罪されない芸術があるんじゃないだろうか?
いや、こういう言い方だと、責めているように思うかもしれないが、そうではない。


犯罪であろうと、本人が芸術だといいはるのならそれは「芸術」なんだろう。その人の中では。
逮捕されようとされまいが、芸術だといいはるのならそれは「芸術」なのである。
今回擁護して回る側は「芸術がわかってない」という趣旨の発言をしていた。
それがもし、写真家の逮捕が不当であるということを言わんとしているならば、彼らの中で芸術は絶対的に「善きこと」であり、免罪されなければならないものということになる。論理的に考えればそういうことになる。


けれど、ぼくはそうは思わない。
別に逮捕されようと、芸術じゃないと言われたわけじゃない。
もちろん、「犯罪だって芸術であり得る」からといって、それは犯罪を「奨励」しているわけではない。
「奨励」しているように読み取る人がいるとすれば、すでにその人の中で「芸術」がニュートラルな位置にないのだろう。
たとえば、許可なく通りすがりの女性を撮影し悪質なタイトルでマッピングするという行為、これはクソである。許しがたい行為で、処分されてしかるべきである。
でも、彼らがもしそれを芸術だのアートだのと言うのであるならば、それも同時に真なのだろう。
警官に両脇抱えて引きずられて行きながら「芸術だ!」と叫んでもらえればいい。


ただ、ここまで思考を巡らしていくと、最終的にいつも「芸術と教育」の壁の前で立ち止まってしまうことになる。
芸術と犯罪が両立することがあり得る、ということを認めてしまえば、こんどは教育としての芸術、制度化された芸術教育の機関の立場はどうなるんだ、という話になってくる。
ある芸術家が表現を突き詰めていった先で、法の外にでてしまう可能性もある――そのことを、制度化された法の内側で教育するという事態の根本的な矛盾は、いかに解決できるだろう?


そうなってくると、芸術教育は結局、ゲットーのような「私塾」のスタイルに回帰していくんじゃないか、という気がしている。