いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】ぼくが「回天」にひきつけられる理由 〜横山秀夫『出口のない海』〜

広島出身ということもあり、原爆教育というのを他の地域の子どもより多く受けたはずだが、ぼくが戦争について学んだ中でもっとも印象に残っているものは、実はそこにはない。
あれは家族で行った呉でだったと思うが、そこでぼくは原爆よりもっと仄暗く、底知れぬ兵器と出会った。人間魚雷「回天」だ。


半落ち』などの警察小説で知られる横山秀夫に、この回天と運命をともにすることとなる若者たちを書いた『出口のない海』という小説がある。

出口のない海 (講談社文庫)

出口のない海 (講談社文庫)

とくに前半は、大学野球部の青春群像劇的な側面もあるが、それでもどうしても注目してしまうのは、やはりこの回天だ。

舞台は、日本が真珠湾を攻撃し太平洋戦争が勃発した1941年。主人公の並木浩二は甲子園優勝投手だったが、大学に入学して戦況が悪化。大学野球どころではなくなり、ついに彼らも徴兵されることとなる。そして、配属された対潜学校で、挺身肉薄一撃必殺の「特殊兵器」の搭乗者が募集される。並木は、国のためにと意を決してその搭乗者に応募する。そのときはそれが、特攻兵器だとは知らず。
そして並木ら志願兵たちは、ついに「回天」と引き合わされることになる。

 凄まじい騒音が鼓膜を叩いた。工場。内部はまさしくそうだった。
 黒い物体が目に入った。その瞬間、ふっと目眩がして視界が暗くなった。
 並木は目を瞑った。小さく頭を振り、そして、ゆっくりと目を開いた。
 ――これか……。
 知らずに拳を握りしめていた。
 回天が眼前にあった。丸みのある弾頭が鈍く光っている。長い胴体。前の方が太く、後ろ半分はやや細い。大きな魚に小さな魚が後ろから突っ込んだかのような格好だ。二連のスクリューが尾鰭のごとく目に映る。
 魚雷だ。形そのものは魚雷に違いない。だが、それは巨大な棺桶に見えた。鉄の棺桶――。
 並木は動けなかった。握った拳に汗が滲んだ。

pp.154–155

実際に見たらわかるが、回天は人が乗るものであるにもかかわらず、怖いくらい重々しく、禍々しい黒色をしている。

「貴様らには、これに乗ってもらう」
 馬場大尉が重々しい声で言った。
「天を回らし、戦局の逆転を図る。名付けて回天である。弾頭に搭載する一・六トンの炸薬は、いかなる戦艦、空母といえども一撃で撃沈可能だ。この回天が何十基、いや、何百基と敵艦に襲い掛かり、ことごとく敵艦を海に葬るのだ」
 大量の爆薬……。潜望鏡……。
 並木はすべてを悟った。
 ――そういうことだ。俺たちは魚雷の目となって敵艦に突っ込むんだ。

pp.155–156

脱出装置があるのでは? という一縷の望みも絶たれ、並木は回天が、自分の棺桶になるということを悟る。五体満足の20代の若者が、自分の棺桶と対面するということの過酷さは、ぼくの想像を絶している。
もちろん、人が自らの命と引き換えに敵を攻撃する特攻兵器という意味では、神風特攻隊の方をさきに認知していたと思う。それでもぼくの中で回天の印象が勝ってしまうのは、まさに回天という兵器そのものの構造に理由がある。

 並木は弾かれたように動いた。回天に覆い被さるような格好で上部ハッチを開き、その丸い空洞に腰と足を滑り込ませる。
 すとんと腰が座席に落ちた。ひんやりとした硬い椅子だった。
 狭い。胴直径一メートル。その数字以上に狭く感じる。前も後ろも酸素タンクの壁が迫り、身動きもままならない。右足に至っては機械につかえて伸ばすことすらできなかった。
 ――これが回天か……。
 並木は改めて衝撃を受けた。人が乗るスペースは、ぴったり人の大きさの分だけしかない。人が機械の歯車として組み込まれるようにちゃんと設計されているのだ。実際に乗り込んでみてそれがよくわかった。まさしく鉄の棺桶。

pp.194–193

今から死ぬ者の乗り心地など構っていられないのだろうかというブラックジョークが思い浮かぶが、それにしても胴直径一メートルは狭いだろう。
実際、幼少期だったので、自分が回天の中にまで入って見学したかは覚えていない。もしかして展示されたパネルを観ただけだったのかもしれない。どちらにせよ、年端もいかないような若者がこんな窮屈で、こんな薄暗く、こんな寂しいところで、一人人生に幕を引くことの底知れない絶望が、子どもの頃のぼくには強烈だったのだ。
そこからは、命がけの訓練(それは言い換えれば、「巧く死ぬ」訓練でもある)とともに、内省の期間が始まる。
あるとき並木が、後輩の沖田との会話で、自分らが敵兵を一度も見たことがないという指摘をする。神潮特攻隊(神風特攻隊と対で彼らはそう呼ばれている)はその性質上、暗い海をさまよいながら敵に探し、そして視認したときが最期なのだ。ここでも、彼らは、神風特攻隊とはまた違う業を背負っている事がわかる。
その性質上、彼らの戦争は死を目前にする恐怖と向き合う内省の時間の方が圧倒的に多くなる。これを指して、並木は自分たちの戦争を「己の戦争」と呼ぶ。


そして、並木にもついに回天での出撃の日が来る。はたして彼はどういう運命をたどるのか。興をそぐので、小説の結末をここには書かない。

並木は出発する前、沖田に、自分が回天に乗る理由をこう説明する。

「勝とうが負けようが、いずれ戦争は終わる。平和な時がきっとくる。その時になって回天を知ったら、みんなどう思うだろう。なんと非人間的な兵器だといきり立つか。祖国のために魚雷に乗り込んだ俺たちの心情を憐れむか。馬鹿馬鹿しいと笑うか。それはわからないが、俺は人間魚雷がこの世に存在したということを伝えたい。俺たちの死は、人間が兵器の一部になったという動かしがたい事実として残る。それでいい。俺はそのために死ぬ」

pp.313-314

あまりに未来志向的すぎるという気がするけど、これこそがまさに主人公を通じて、著者が伝えたかったことのように思えてならない。
実は、ここにくるまで、ぼくはこの記事をどう書き終えようか迷っていた。回天という、この非人道的な兵器を批判して終わるのは容易い。ヤッパリセンソウハイクナイとまとめることだってできる。そんなの誰だってわかっている。
けれど、そんなありきたりなまとめかたでは、回天という兵器があったという事実に対して、むしろ冒涜になってしまうんじゃないかとさえ思えてくるのだ。

そんなことを思いながら呼んでいたとき、ふいに著者は上の言葉を並木に話させたのだ。

そうだ。回天があったことを、そしてそれが後世に伝えられていく事自体が、一つの重大事なのだ。それがどのように解釈されるかということは二の次だ。今から十数年前に、ある悪魔的な兵器が開発され、それに全身全霊をかけて乗った男たちがいる。あらゆる価値判断は脇におき、この小説はそのことを知らしめることだけに注力して書かれたような気がしてならない。
そしてその情念にも似た感情は、誰かによって読み継がれることによって初めて成就するということは、言うまでもない。