いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

もしもFacebookユーザーがデスノートを拾ったら……

ミミズが光速に見えるほどの鈍重さでデスノートを読みおえた。
それは一つ前に書いた。
デスノートの基本的なルールをおさらいすると、
1、人の名前を書いたらその人が死ぬ
2、頭に顔が思い浮かぶ人でないとダメ。あてずっぽで「田中太郎」と書いても、見ず知らずの全国の田中太郎さんの大量殺戮を起こすことはできない


もはや誰もが知っているようなことだが、一応確認。


マンガでは、死神の落としたデスノートをひろい凶悪犯罪者の抹殺を開始した通称「キラ」夜神月)と、彼の正体を追う匿名探偵「L」の頭脳戦が展開される。
読んでいて、これは少し前のネット社会のメタファーなんじゃないかと気づいた。ソーシャルメディアが普及した今でこそハードルがさがってきたが、かつて日本のネットで顔出し実名公開で活動している人は、著名人をのぞけばほとんどいなかった。多くの人は、匿名のハンドルを用いて活動していた。

殺人を起こしている「キラ」が自らの本名を明かさないのはあたりまえだが、それに対峙する「L」が本名を明かさないのは、「キラ」相手に実名を明かすことが文字どおり「致命的」であるからだ。作中で、キラは犯罪者を消すかたわら、彼の正体をあかそうと迫ってくるFBIや警察の人間までも手にかける。彼らは偽名をつかって活動するが、悪魔的な頭脳の持ち主でもある「キラ」夜神月によって実名をあばかれ、殺されていく。


つまりデスノートとは、実名バレ顔バレは即効で「死」を招くという、かつてのネット社会を象徴的にあらわしているといえる。死というのはさすがに言い過ぎかもしれないが、少なくとも赤の他人から顔だけでもなく、本名だけでもなく、顔と本名を一致して認識されることは、あまり気分のいいことではなかったというソーシャルメディア以前のあの「懐かしい感覚」を呼び起こさせられる。


マンガでは途中から「死神の目の取引」というルールが追加される。この取引を死神とかわせば、余命が半分になるかわりに死神と同じように顔をみた人間の本名と余命がわかるようになる。デスノートを持つ人間にとってこれは、労せずターゲットの本名を手に入れることができるという点で、最強のオプションといえる。
この「取引」とは「グーグル先生」のようなものだ。デスノートでは顔から本名を割り出す。それに対して、いまではグーグル先生で本名をググればたいていの人の顔の画像を手に入れることができるだろう。恐ろしい。


いまやネットでは実名登録、顔出しは当たり前。デスノートがあれば大変なことになっていただろう。デスノートをかたわらに起きFacebookなんか開いたら、理論上は収集つかない大量殺戮ができることになる。

逆に考えると、ソーシャルメディア全盛の2012年現在、ぼくらは『Death Note』が発表された当時には思いもよらなかったような未知の領域に、知らぬ間に踏み込んでしまっているということなのかもしれない。