いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「秀才とは何か」をデスノートを読み終え考えてみる

光の遅さでデスノートを読んだ。
はじめはイノセントな正義を断行していた主人公夜神月(と書いてライトと読ますDQNネームの走り)が、次第に醜く歪んでいく悲劇的な過程(それはもう顔の表情筋にこれでもかと顕著にあらわれてく)は、ピカレスクロマンの王道なんだけれど、王道であるが故に目が離せない。
月の女ったらしっぷりもスゲェ。おのれの余命を差し出す気はさらさらない(なんてったって、新世界の王ですからな!)のに、自分に惚れた女には甘い言葉をささやいて文字どおり命をけずらせていく。そしてそのことにまったく躊躇がない。それが潔い。特に印象的なのは、一度すでに「悪魔の目の取引」をしていたはずのミサが、さらにもう一度取引するだろうと踏んで月が計画を練っていたことがわかる場面と、ふき出しに眼球と書いてミサとルビがふってある場面(たしかどちらも7巻以降だったような…)で、彼女は完膚なきまでに利用されただけのかっこうになっている。おじさんここは思わず感動しました。こいつはクズいと。


ところで、マンガ『DEATH NOTE』には、デスノートという道具(設定)と、それを動かすキャラクターという要素がある。結果的に、この夜神月というキャラクターはデスノートを使う上でこれ以上にない適役だったのではないだろうか。デスノートは誰が拾ってもいいはずだけど、夜神のようなキャラが持たないと、たぶん面白くなかっただろう。というのも夜神は典型的な秀才だ。秀才は鬼才ではない。秀才というのは、あるルールの上で、あくまでそのルール上での最適解をだすことに長けた類型の人間を指す。月はあくまでもデスノートのルールにおいて秀でた人間だ。
ここ数年、ジャンルを問わずそういうタイプの作品が増えているような気がする。たとえば、今年春に公開された『TIME』という映画は、お金が寿命に換算されるという近未来が舞台だ。これもいわば「ルール」だ。貧民街(つまりこの映画では寿命が短い人々のいる街)に生まれた主人公は、そのルールの中で一応の反逆をとげることになる。
しかしこの「寿命=お金」というルール自体は最後まで不問にされる。何者かの人為によってそのルールが生み出されたことは仄めかされるが、それが誰で、何の目的かなんていうのはこの映画の関心外なのだ。


ぼく個人の心情としては、与えられたルール自体に疑問を持ち、やがては牙をむき転覆させてしまうほどの規格外なキャラクターのほうに与したくなる。
たとえば、『幽☆遊☆白書』における浦飯幽助。彼は、三強の体制がくずれ情勢が不安定になっていた(死神界ならぬ)魔界において、一世一代の大トーナメントをぶちあげる。プロフィール上は中卒の劣等生だが、いや、劣等生であるが故に、自分の利益すら度外視にしたおそるべき発想ができる。夜神月がもし浦飯幽助と同じ立場に立たされたら、もっと狡猾にやっていたことだろう。


けれど映画『TIME』は、そして『DEATH NOTE』はマンガも映画もヒットした。その背景には、こうしたルールに乗っ取った上で力を発揮する秀才肌の主人公が、世の中で理想的な存在として崇められているということがあるのかもしれない。