いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ゲームの歴史とは「物語の扱い方」だった!?〜さやわか『僕たちのゲーム史』★★★★★★★★☆☆〜

僕たちのゲーム史 (星海社新書)


最近、親会社にあたる講談社の現代新書を圧倒する勢いで躍進する星海社新書から出た一冊。「物語評論家」という不思議な肩書きをもつさわ……さやわかさんという方が著したゲームの歴史の本だ。「物語評論家」というのも不思議な肩書きだが、なによりも「物語の評論家がなぜゲーム?」と誰もが疑問にもつところだろう。

その疑問にはいきなり答えてくれる。本書はまず、ゲームを「変わらない部分」と「変化する部分」に分類する。すなわち「変わらない部分」とは「ボタンを押すと反応すること」であり、「変化する部分」こそが「物語をどのように扱うか」なのである。ゲームの歴史とはつまり、「ボタンを押すと反応すること」を最小公倍数に、物語をこねくりまわしてきた歴史である、と実は最初にすでに打ち明けられているのだ。
この簡潔な定義の潔さっ!
だがしかし、すでに各所で書評が出ているとおり、歴史へのこの補助線の引き方こそが、本書の独自性であり一つの卓見であることはまちがいない。



帯に躍るように、本書はその探究を「スーパーマリオはアクションゲームではなかった!」という話から始める。単純なアクションゲームであるなら、その当時すでに飽和状態だったという。
ではなぜヒットしたのか。
それは、「スーパーマリオ」がアクションゲームでなくアドベンチャーゲームだったからであるという。禅問答みたいだが、本書はアクションゲームと一線をかしたものとしてアドベンチャーゲームをとらえる。そして、アドベンチャーゲームであるからこそ、スーパーマリオはヒットしたのだ、と。ではアドベンチャーゲームとは何か。アクションゲームとアドベンチャーゲームを分かつものこそが、「物語の扱い方」なのである。ここから先は、本書をぜひ手に取って読んでみてもらいたい。


本書はマリオを皮切りに、シミュレーションにシューティング、はたまたゲームセンターや格ゲー、同人ゲーム界さらに海外のゲーム事情にまで、開発者や当時の雑誌レビューなどを丁寧に参照しながらゲームの歴史をめぐりめぐっていく。特に言説分析においては、発言者(あるいは筆者)の言葉尻にまで目ざとく着目し、そこから論を発展させていく非常に繊細な芸風だ。

読みながら感じたのは、本書が全体的にポジティブだということ。いや、表現としては"優しい"の方が近いだろうか。もちろん出発点には「はじめに」で述べられるような「なぜ今ゲームが売れないのか?」というネガティブな状況が横たわっているはずだけれど、それにもまして本書はけっして今売れないというゲームについて、否定的な評価を下さない。
ただ、それは「甘い」というわけではない。きわめて明晰な分析がなされ、そのいいところも悪いところも包み隠さず論じながら、なおかつ肯定するという意味で本書は「優しい」のだ。

「歴史は勝者が作る」という。けれど、このさわ……"さやわか史観"においては(しつこいか)、敗者もただの脇役ではない。とくに読んでいてすがすがしく思えたのは、90年代にあったハード戦争を紹介する場面で、すでにこのことについて多くの書籍が触れているだろうが、本書においてはSCEのPSに敗れ去った(と本書は表現しないが)任天堂も固有の哲学を貫いたことが強調される。敗者は敗者として美しいのだ。「売れているのが良いもんなら世界一うまいラーメンはカップラーメン」(@甲本ヒロト)になってしまう。ヒットしたものだけを取り上げてもゲームは語れない。



読んでいる途中にハラリと落ちた星海者新書の目録には、「武器としての教養」という字が躍っている(ほんと、このレーベルは独特の雰囲気をもっている)。
この本が"武器"だとしたら、それはきっと何かを壊すためのものではなく、新しい何かを作るためのものだ。それが何なのかはもはや言わずもがなだろう。この本はもちろん、様々な年齢、境遇の人に開かれているが、その中でも特に次代のクリエーターに宛てて書かれたことは、まちがいない。