いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

AKB総選挙が終わってふと考える、評論家の存在意義とは

ガース(に扮した柳下毅一郎 そもそも、この手のベストテンって、いわゆる「名作」しか上位に入らないものなんですよ、絶対に。
ウェイン(に扮した町山智浩 でも、評論家は、ハデに宣伝されないから一般の人が気づかない映画のなかから、新しい作品や才能を見つけて紹介するのが義務なんじゃないのか?
ガース 後ろ指さされんのが恐いんじゃないの?評論家業界で。
ウェイン 評論家なんて「誰を評価したの?」ってとこでしか評価されないんだぜ。だから新しい才能、作品を見つけるために海のものとも山のものとも知れない映画を観まくるしかない。だって最初は誰だって新人だから、低予算のインディーズか、ロジャー・コーマン製作のゲテモノしか作らせてもらえないからね。その九〇パーセント以上は本当のクズだろうけど、そのゴミの山に新しい才能や表現が埋もれてるんだよね。評論家と称してタダで試写観てる以上、お金やヒマがなくて月に数本しか映画を観ることのできない一般人の代わりにゴミの山漁るのが仕事だろうってのよ。それを面倒くさがって、すでにいい評判が伝わってる映画しか観ない先生野郎がほとんどなんだよね。

『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判2』p.252

冒頭の「この手のベストテン」の筆頭に来るのが「キネ旬」や「映芸」のベストテンなんですけど、ここで「映画」をテーマにして交わされた会話は、もちろん小説でも音楽でも、そしてアイドルでも、なんでも置換することができるわけです。
大まかにいうと、世の中にはおもしろいから流行ってるものおもしろいのに流行ってないものつまらないのに流行ってるものつまらないから流行ってないものの四つがあると思います。
以上の引用部から、町山さんは評論家の存在意義を二つ目のおもしろいのに流行ってないものに見出していることがわかります。つまらないから流行ってないものを評論した場合も、その酷評のさまが面白かったりするのですが、基本的にはおもしろいのに流行ってないものをみなに知らしめることこそが、評論家の本義というわけです。
逆に言えば、残る二つのタイプの「流行ってるもの」には評論家の存在意義はない、ということになります。もちろん「東野圭吾がなぜ売れてるのか?」「ワンピースがなぜヒットしているのか?」を分析することも困難な仕事ですし、評論として興味深い案件ではあります。しかし、ぶっちゃけた話、「てめぇがとやかく理屈をならべようと、売れてるものは売れてんだよこのタコ」というわけでございます。

しかしどうでしょう。昨今の評論家って、現実に起きていることにただ追従してるだけって感じしませんか?その気持ちは、昨日のAKB総選挙に担ぎ出された人たちを眺めることで、より強まりました。

今さら理屈をこねて絶賛しなくたって、AKBは誰だって知っているような「流行っているもの」なわけです。そんなものを「絶賛」してもしかたがない。ぼくはそんなの、ただのポピュリズムだと思います。