今回の次長課長河本氏の話題をながめていて気になったので、以前読んだ本を引っ張り出してきてぺらぺら再読してみた。
- 作者: 本田良一
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2010/08/01
- メディア: 新書
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はじめに
第一章 生活保護とは何か
第二章 母子家庭と貧困の連鎖
第三章 こぼれ落ちる人々
第四章 格差と貧困
第五章 負担ではなく投資
第六章 自立支援プログラム
第七章 どう改革するか
おわりに
この本によると、生活保護について具体化した生活保護法では、生活保護について「四つの原理」というのをまとめている。
第一の原理は困窮者の救済は国の責任だよってことを定めた「国家責任の原理」。第二の原理は、思想・信条や、人種などのちがいによって差別を受けたり優遇されないってことを定めた「無差別平等の原理」。第三の原理が、具体的な保護の水準を「健康で文化的な生活水準」と定めている「最低生活保障の原理」。そして、今回一番議論として沸騰しているのはたぶん最後の四つ目、「生活保護を受けられるのは自分の資産や能力を活用する努力をしたり、親族などの援助、生活保護法以外の支援を検討した上で、それでも生活できない場合に限定される」(p.10)ということを言っている「補足性の原理」だ。本書もいっているけど、この四つ目が唯一、生活保護を受ける側に対して課された「ルール」みたいなもんだと思う。
それで、じゃあ自分は貧乏だけど、子供が何かの事業に成功して高額所得者になった場合、それは「補足性の原理」に反するのだろうか。答えはNOだ。
だって、全ての親子が円満であるとはかぎらない。子どもがお金持ちでも親子仲が悪ければ、助けてくれと頼んでも断られるかもしれない。それに、本人が「息子の世話にはならん!」という「思想・信条」の持ち主に対して支給しないのは、今度は「無差別平等の原理」に反するだろう。
そして、今回の一件を眺めてみると、これがきわめて特殊な事例だということがわかる。なんで河本氏が叩かれるんだろうというと、それはまぁこういうことだからだろう。
- 作者: 河本準一
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2011/05/01
- メディア: 文庫
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しかしその一方で忘れるべきではないのが、この話題はもはや生活保護の不正受給問題という一般性を大きく逸脱し、「河本さんちのお話」という極めて特殊な話になっている、ということだ。
なによりマズいのは、そんな特殊例をとってますます生活保護を受給することが「恥ずべき行為」であるというスティグマ(烙印)性が強まり、かつ、生活保護受給者への監視の目が厳しくなると予想されることだ。
釧路市内で二〇〇三年から生活保護を受けていた母子家庭の好子(四九)=仮名=も、担当のケースワーカーから「車に乗っている、と通報があったけど」と電話を受けたことがある。好子さんは免許を持っていない。車に乗れるはずがない。妹が近所に来たときにアパート前に止めていた車を見た人から通報がいったそうだ。
pp.115-116
生活保護のせいでそんな相互監視社会がデキあがり、よりいっそう地域がギスギスし始めるなら、元も子もないじゃない。だって、もともと周りに助けてくれる人がいないから国が助けてるんだしね。今回の騒動で他のタレントのなかには、叩かれるのを恐れて親戚にいる生活保護受給者と縁を切る人や、受給そのものをやめさせようとする人だって出てくるかもしれない。
どれほどの巨悪なら、ここまで叩かれていただろうと考えてみてもらいたい。「お金は大切だ」という話ならわかる。だがそれに付け加えないといけないのは、お金にまつわる怒りの大きさは、お金の量に比例しないってことだ。センスのない箱物行政にどれだけ税金が投入されようと、一部の人にとってはそれにもまして、生活保護費というお金は「高価」なんだということがこの騒動で学ぶべきひとつの「教訓」になる。
今回のことで、日本には未だ、「働かざる者食うべからず」というごりっぱな道徳がしぶとく残っているということがあらためてわかった。でも、誰もが「今すぐ」に働けるわけではない。本書の言葉を借りれば、生活保護は「負担ではなく投資」という側面もある。失業保険も含め、F1でいうところの「ピット」のような役割が生活保護にはきっとあるはずだ。
最後にもう一つ、「共同体から迫害されている者ほど『共同体のルール』に口うるさくなる」という法則があるんじゃないかと以前から思っていて、今回のケースもそれは当てはまるのだけれど、これはどういうことなんだろうね?