いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

『青春の蹉跌』における「妊娠の怪」

最近読んだ石川達三の『青春の蹉跌』という小説。


青春の蹉跌 (新潮文庫)

青春の蹉跌 (新潮文庫)


これがおもしろかったのだけれど、なんともおかしな箇所があるわけだ。


(以下ネタバレあり)

◆あらすじはこんな感じ


主人公の江藤賢一郎は、ある私大の法学部学生。学友からも一目置かれ、後に在学中に司法試験を合格するほどのエリートだ。女手一つで育てた母親や親せきからは、その将来を嘱望されていた。彼自身、同輩の学生が革命思想に傾倒する中(おそらく舞台設定は60年代末から70年代初頭か?)、社会のピラミッドの上層部へのし上がっていこうという野心に満ちている。


そんな彼へ、以前家庭教師をしていた大橋登美子という高校生が想いを寄せる。手紙による盛んなアプローチを最初は拒んでいた賢一郎だったが、早くセックスを経験したいという焦りと登美子の肉欲の誘惑に負けて、関係を持ってしまう。この関係が後々まで続いていく。


その後、在学中ながらみごと司法試験に合格した賢一郎に、それまで学費を出してくれていた有力者の伯父の令嬢の康子との縁談が舞い込む。康子との結婚は、彼にとって法曹界をのし上がっていく近道を手に入れたに等しい。このとき彼にとって、登美子はいわば「邪魔な存在」になる。


しかし、登美子に別れを告げようと考えていたとき、彼は彼女から呼び出され思いもよらぬ事実をつけつけられる。彼女は妊娠していたのだ。彼女は出産を望み、彼に結婚をせまる。こうして、それまで彼の合理的な判断で着々と積み上げられていたはずの賢一郎の人生は、欲望によってまんまと蹉跌してしまう。

◆謎の避妊具不在


この小説は、齋藤美奈子の文芸評論でもとりあげられているとおり、「望まない妊娠」を描いた「妊娠小説」にあたる。


だが、なんともおかしい。
何がおかしいかというと、相手の女を妊娠させたというクリティカルな状況のなかでも、ほとんどさっぱり避妊具という存在が忘れられているということなのだ。
当時は避妊具がなかったのかといえば、そんなことはない。


ウィキペディアによると、日本のシェア第一位のオカモトは戦前からコンドームを生産していたことがわかる。


避妊具という選択肢は、当時もなかったわけではない。
となると、ここで考えるのは以下の2通りだ。


(1)二人は避妊してセックスした。にもかかわらず賢一郎は登美子に妊娠を告げられた。

(2)二人は避妊せずにセックスし、賢一郎は登美子に妊娠を告げられた。


もし避妊具をつけていれば彼の責任がなくなる、というわけではない。
しかしそれでも(1)なら、「避妊具つけたのにぃぃぃ」というやり場のない怒りや、自分の不運を呪う気持ちがあってもおかしくない。
そして(2)であったとしても、「避妊具つけておけばよかった…orz」という遅すぎる後悔がわいてくるはず。
しかし作中、ことにセックスの描写はほのめかされる程度でしかないし、避妊具をめぐる主人公の思考は、まるででてこない。


そのせいもあいまって、この「受胎告知」を受けて以降、賢一郎の妊娠をめぐる苦悩は、在学中に司法試験に受かった逸材とは思えないほど、幼稚なレベルでぐるぐる循環することになる。

彼女が妊娠したということが憎くてたまらなかった。彼女を愛してはいない。始めから愛はなかった。なぜ愛のない情事までが妊娠と結びつくのか。そういう風に造られている女の生理そのものが、愚劣なものに思われてならなかった。

(p.197)

こうした怒りにちかい感情は、一見身勝手だが直感的にはわからなくもない。いや、そんな経験したことないけど。
だがやはりここで来るべき思考は「つけときゃかったーーーー!」とか「どこで外れたんだーーーー!」ではないか。


最終的に、登美子を殺して逮捕された賢一郎は、留置場のなかで登美子のお腹の子が、彼の子供ではなかったということを告げられる。
しかしどちらにしろ、彼は自分の過ちだと勘違いして犯行に及んだのだから、「受胎告知」の後の苦悩で、避妊具云々の話がまったくでてこないというのはやっぱりおかしい。これは単なる時代的制約として片づけられるんだろうか。

◆どうして小説は「装着」を描かないのか

ただ、よくよく考えてみたら、セックスを描く小説は数多あれど、ことの最中に避妊具をつける瞬間を描写をした作品は少ない。個人的にはそんな小説を読んだことない。
なぜ作家は、それを描かないのだろうか。


あくまで推測だけど、それが「文学」にならないからじゃないだろうか。
例えばコンドーム。中身が一緒に破れないよう袋を破る前に端に寄せるだとか、表裏を入念にチェックするだとか下の毛が挟まって「イテテ」だとか、それらはまるで「文学」になる要素ではないのだ。

否、だからこそ「文学」にするべきなんじゃないかと、僕は思う。
世の多くの男性諸君は、文学には「存在しない」あの無様な瞬間を相手の女性にさらし、また女性にも惨めな思いを味あわせながら、それでもことに臨んでいるのだ。どう頑張っても流れを止めてぎくしゃくしてしまうあの瞬間をなんとかしようと、試行錯誤しているのである。今現在も、この地球のどこかでは四苦八苦している男がいることだろう。


だからこそ、文学が無様なそれをあえて描き、読者を先導していくべきなんじゃないだろうか。いやマジで。